しかし、その後ふたたびサガンの人生は爆撃の集中砲火にさらされてゆく。1992年、コカインの使用、譲渡売買で逮捕され、一時身柄を拘束される。1995年禁固一年、十八か月の観察期間、四万フランの罰金の判決。それでもサガンは毅然と言い放った、「"人は他人の自由を冒さない限り自由だ"と人権宣言は言っている。私は自分の好きなように死ぬ権利がある。"法律は人間にあわせて変わるべきで、その逆ではない"とモンテスキューは言っている。」しかしもはやサガンの見解に組する者などひとりもいなくなっていた。
それでもサガンは書いてゆく。もはやタイプライターを打つ力さえ失い、こんどはベッドのなかでペンを持って。刊行された作品こそ、1998年が最後になったものの、しかしサガンは最後まで作品を書き続けていた。
2004年9月24日、ノルマンディーの小さな港町、港からすこし離れた森のなかの別荘で、サガンは最後の息を引き取った。六十九歳。サガンはこの最後の時期にあっても、ベッドに寝たまま、新しい小説の構想を書きつけていたという、「わたしにはたくさんの主人公が待っている」と言って。
野暮な話も書こう。サガンの同世代のシリアスな書き手の多くは、小説を書くにあたって、それまでの「・・・についての記述」という制約から飛翔し、むしろ指示対象物からなんとしてでも身を引き剥がし、さらには〈記述すること〉じたいをめぐる問いを記述に繰り込んでいった。だが、サガンはこうした前衛的潮流とは一貫して無縁であり続けた。むしろサガンは好んで〈指示対象物とともにある記述〉をこそ選び、それこそ愛と孤独を、まるで19世紀の作家と同じスタンスで、しかももっとシンプルに書いた。だからこそつねに何百万人もの読者に愛された。人に拠ってはサガンの小説は、ハーレクイーンロマンスと区別ができないかもしれない。だが、もしも両者の違いを峻別できないならば、文学を語ることはできない。
なぜなら、いっけんハーレクイーンロマンスと見まがうばかりのサガンの書く物語には、実は、ひじょうにたんじゅん化された新古典主義とでも呼ぶべき、戯曲の骨格が潜んでいる。この戯曲の骨格に拠って、サガンの作品は危険なほど通俗に接近しながら、それでいて紙一重のところで通俗性を回避しえているのだ。ただしそんな話は、たかだか文学関係者のサロンのなかでの話題にすぎない。大半の読者には無縁な話題だ。書評者の務めとして書いたにすぎない。
サガンを愛することは精神の自由を愛すること、そう、カネで買える夢にあふれながら誰もがかじかんだ心で機械のように生きさせられ、ともすればなにもかも奪われ続けてゆく、人生のなかで、精神の自由を愛すること。
■フランソワーズ・サガン(Francoise Sagan 1935年6月21日 - 2004年9月24日)
フランス、アヴェロン県カージャール生まれ。本名はフランワーズ・クワレーズ。父は、やり手の実業家。 1940年、リヨンに疎開。1945年にパリに戻り、カトリック系のルイーズ・ド・ベティニ女学院に編入、四年後に退学処分された。 十七歳で、プルーストをすべて読破していた。ソルボンヌ大学中退。1954年、『悲しみよこんにちわ』以降、多くの作品を書き、その多くは映画化された。代表作に『ある微笑』、『ブラームスはお好き』、『夏に抱かれて』、そして『逃げ道』がある。
なお、本稿を書くにあたって、『世界・時の旅人 フランソワーズ・サガン その愛と死 旅人・瀬戸内寂聴』(2005年4月29日放送 デジタルBS Hi)そのほかを参照した。ちなみに、Francoise Saganと入れて、グーグルで画像検索すれば、サガンの生涯の画像を総覧できる。