困ったな、『悲しみよ こんにちは』(Bonjour Tristesse,1954年)を書評するのかい? たしかにあれはいま読んでもチャーミングな小説、おれだって、もしも十七歳の美少女の友達がいたなら、彼女の誕生日に、香水かなんかに添えてプレゼントするかもしれないけれど。でもね、おれにとってはサガンには「もうひとつの」傑作があって、それは1991年彼女が五十六歳のときに発表した『逃げ道』(Les Faux-Fuyants)っていうコメディでね、それはサガンの主たる作品の系統からはまったくもって外れているけれど、それでいてけっして忘れられない異色の作品なんだ。コメディなんだ、しかも1940年というフランスにとってトラウマのように記憶されている戦時下の最悪の年において、四人のプチブルジョワが、農民や白痴と出会い、階級崩壊的な爆笑を引き起こしてゆく。もしもその『逃げ道』に、フランソワーズ・サガンっていう署名じゃなくて、世の中のみんながまだ知らない未知の名前が添えてあったならば、いまごろはブロードウェイの大ヒットで、日本じゃ劇団四季が芝居にかけてるんじゃないかしら。逆に言えば、サガンという名前で損してしまっている。
ほら、サガンの大半の作品は、主題は愛と孤独で、それが三角関係のなかで描かれる。したがって〈タイプの違うふたりの男のあいだで、揺れ動く女心〉という感じの展開になる。もちろん構成がかっちりできていて、人物たちはつねに円滑に動き、しかもサガンは要所要所で詩情にあふれた警句を使い、文章を引き締めている。したがってどれを読んでもおもしろい。ただし悪く言えば、すべて男と女の三角関係、ワンパターンだ。ところが『逃げ道』(訳・河野万里子 新潮文庫刊)はそういうラインからまったくもって外れていてね。この機会にこの傑作に触れないなんて、あまりに惜しい。では、こうしよう、このさいふたつの作品をセットで紹介しよう、そうするとそのふたつの作品の「あいだ」に彼女のほぼすべての作品が収まるし、書いてるおれもたのしいし、読者のあなたも、このレヴューでサガン通になれる。うん、いい考え。では、はじめましょう、まずデビュー作の『悲しみよ こんにちは』から。
主人公はセシル、十七歳。セシルはパパを愛し、パパも彼女を愛してる、ただしパパはセシルだけじゃなく、愛人を愛してる。(ちなみにその恋人は半年ごとに替わったりする)。三角関係の、ふたつの角はパパとセシル、そしてもうひとつの角の登場人物だけが半年ごとに入れ替わる、そういう構造。そのなかで、かれらは気ままに幸福に暮らしている。ちなみに、セシルにはシリルという同世代のボーイフレンドがいて、セシルはパパが大好きだから、そこで、セシルとパパとシリルというもうひとつの三角関係も構成されるところがこの物語を凝ったものにしている。そう、二組の三角関係が、たがいに影響を与えながら、人間関係の音楽を奏でてゆく。
ところがそれまでは安定していた、パパとセシルと愛人の三角関係も、しかしパパの新しい愛人アンナが登場してからというもの、にわかに不穏になる。なにしろアンナは、セシルにあれこれ教育的にふるまい、あれこれ厳しい禁止を持ち込む。すっごく窮屈。セシルはそれまでの安逸な幸福が失われるのを嘆き、アンナにささやかな復讐をおもいたつ。そう、父の心を操縦し、父の心を別の愛人エルザに向かわせ、仲の良いふたりの光景を、アンナに見せ、彼女を哀しませることを。セシルの策略は成功した。しかしアンナは悲しみのあまり自殺してしまう。むろんセシルには、そこまで彼女を傷つけるつもりはなかった。しかしもはや取り返しはつかなかった。セシルは、自分のたてたあさはかな策略を恥じ、その策略が奪ったひとつの命をおもい、その罪の意識がセシルの心に悲しみの影を作る。"Bonjour Tristesse"、悲しみよ、こんにちは。セシルの幸福な思春期は、その夏、終った。ざっと、そんな物語なんだ。
喩えていえば、ビリヤードプレイヤーが、球のぶつかりで生まれる運動のラインを読んで、球を突き、ときにクッションの反射も利用して、ホールに落としてゆくように、人間同士の心理を登場人物がゲームのように扱って、それこそビリヤードのように、互いの心理の運動を、変化を、描いてゆく。ちょっと悪徳的、だってそこには策略もあるし。ただし、ここが、読みどころなんだ。そ、ラクロの『危険な関係』、フローベールの『ボヴァリー夫人』と続く、フランス小説が大好きな(隠微で、かすかに悪徳的な)世界があって、サガンはその世界をさらに軽く、すっきり読みやすい文章で、ほとんどエンターテインメントに近いスタイルで書いた。サガンはこの書き方で書く三角関係ものをほとんど登録商標のように活用し、一年半に一作くらいのペースで、ざっと二十作を書いてゆく。
サガンの作品に特徴的なことは、戯曲の才が小説の書き方においても活かされていること。しかもそのサガンの戯曲観はきわめてオーソドックスなもので、それこそノエル・カワードとか、ニール・サイモンとか、日本でいえば井上ひさしのような、いかにも保守派のゆたかさがあって、これはまたこれで安心できるひじょうに良いものである。