しかも、なんと、サガンがこの小説を書いた時期は、サガンの人生にとって、恐るべき時期だったのだ。いや、恐るべき時期のはじまりだった、と言うべきか。だが、この話題を語るには、フランソワーズ・サガンの人生を、最初から語ってゆかなくてはならない。そう、彼女の人生に、いったいいつ、どんな力が加わり、それが彼女の作品といかなる関係を結んできたのかについて・・・。
フランソワーズ・サガンは、1935年にアヴェロン県カージャールに生まれた、おてんばな女の子。よく戦争ごっこをしていた女の子。十七歳で、プルーストを全巻読破する早熟な文学少女。彼女は美しく、明るく、くったくがなく、そしていつも口を開けば、小説の話をする、そんな女の子。
十八歳で書いた小説『悲しみよ こんにちは』が、1954年、十九歳で出版され、世界中の言語に翻訳され、世界的ベストセラーになる。印税は五億フラン(360億円)。毎晩フルートグラスにシャンパーニュが注がれる日々、それはなにをやってもすべてが注目される日々のはじまりでもあった。世界中のメディアが彼女の姿を追いかけ続けた。彼女は被写体としてハロゲンストロボを焚かれ、スピードグラフィックスの4×5のカメラのシャッターを切り続けられる。彼女の自意識が無限に拡大していったことは想像に難くない。
彼女は、一、二年に一作のペースで小説を書き続ける。主題はいつも愛と孤独。ヒロインが、タイプの違うふたりの男のあいだで、心を煩悶させる物語。社交界を舞台にした、愛と孤独の物語。彼女が作品を書けば必ず世界中でベストセラーになっていった。
成功は彼女の自意識を肥大させ、また彼女を傷つけもしただろう。きわめて不安定な精神状態のなか、いまおもえば彼女はどんどんアルコールと薬物とそしてギャンブルに依存してゆく。よくロックンロールスターや映画スターに起こることと同じことが、サガンに起こってゆく。それが証拠にデビュー当時のサガンの、ほっそりした顎をもつ顔に、ブロンドの前髪がふわりとかかり、利発そうな瞳のお嬢さんの顔は、ざっと二十五年で、キース・リチャーズのような不穏な皺を備えた剣呑な顔と、骨ばった体になり果ててゆく。もう完全なジャンキーだ。ドラッグ所持は違法行為、それが露見しはじめた1980年代の後半からは、マスコミも(それまでの社交まじりのゴシップ記事とは打って変わって)、サガンを露骨に攻撃するようになる。
彼女は、絶好の、犠牲の仔山羊とされて、世界中の好奇の視線にさらされてゆく。1986年、サガンは麻薬使用の疑いで調書を取られる。1988年、麻薬組織の摘発の際、払いのために使ってた小切手から、コカインとヘロインの定期購入が発覚し、取り調べを受ける。身柄こそ拘束されていないものの、サガンはもはや罪人の刻印を受けた人物である。そのうえ1989年、五十四歳にして早くも骨粗鬆症にさえなっている。しかも1988年は身内の不幸が続く。兄のジャックが動脈瘤破裂で意識不明となったあげく死亡。元夫で息子の父でもあるロバート・ウェストフが癌で死亡。母も死亡。なんとも受難な時期なのである。
この、まさにこれでもかというほどの、悲しみのなかでサガンは、この、なんとも愉快な物語を書いていた。そう、1940年という戦時下において、四人のプチブルジョワが、農民や白痴と出会い、階級崩壊的な爆笑を引き起こす爆笑コメディを。おれはそこにサガンの作家魂を見る。
サガンは1990年、麻薬所持で、六か月の禁固(執行猶予付き)、一万フランの罰金の判決を受け、そして『逃げ道』は、その後1991年発表された。批評家たちはサガンのこの作品に驚いた。誰もがこのコメディに声を出して笑い、開放感を味わい、サガンのこれまでのような種類の才能とは違った、コメディの書き手としての才に、おもいおもいに賛辞を捧げた。それは、フランスワーズ・サガンの人生の生前最後の勝利の瞬間であり、つかのまのマスコミとの和解の瞬間であり、喩えるならば、停戦協定のなかで開催された祝賀パーティだった。サガンに数々の花束が贈られ、高額のシャンパーニュの栓が抜けれ続けた。