もともと都会っ子だったYは、そのまま東京のどこかに行方をくらまし、泊まる宿代もない田舎者の私は、また2時間かけて自宅に帰るのですが、その車中ですぐに読み終わってしまう薄いこの小説は、しかしそれまで読んだどんな小説とも似ていなくて、なによりも巻末に収録された、あの274個にも及ぶおびただしい脚注と固有名詞、その多くはブランドだったりミュージシャンの名前だったり東京のあまりメジャーとも思えない微妙な地名であったり、とにかくすべてチンプンカンプンだったのですけれど、まあしかし東京にはこの274個がすべて実在する、と考えるといささか興奮したことを憶えています。
『アメリカの影』と、極私的な『なんクリ』体験をなんとかつなげようとしているのですが、高校生の未熟な読者にも確かに感じられたのは、この小説に漂っている薄いニヒリズムでした。そして、274個並んだあれらの脚注には、誇らしげなものはほとんどなく、妙に皮肉なもの言いが多くて、カタログであることを否定することでかろうじてカタログとして成立しているような、奇妙に倒錯した感覚のものでした。
加藤氏は、『なんとなく、クリスタル』で先の「ブランドに弱い」云々の発言をした男の子が、日本ではスパゲッティを食べる時にスプーンとフォークを使うのがフォーマルだと思われているが、実はイタリアでそんな食べ方をするのは南部の貧乏人だけであり、北部のエスタブリッシュはフォークだけで食べるというウンチクを披露したあと、実際運ばれてきたスパゲッティを、ウンチクどおりにスパゲッティだけを使って食べるその様子を見て、
【<なかなか、いい子だな>と思った。】
と、主人公(女性でモデル)の気持ちを書いているこの小説について、以下のように書いています。
【ここに表明されている“共感”は何にたいしてのものなのか。
それをぼく達は考える必要がある。(中略)
フォークだけでパスタを食べる男の子に対するコトバ、「なかなか、いい子だな」、この共感”の表明には、みじめさを所与のものとして受け止め、そこからはじめようとする姿勢があるが、――つまりみじめさのなかで生きることのけなげさのようなものがあるし、そこから来るつらさの感覚があるが、(中略)田中がこの「弱さ」を生きていること、つまりこういってよければ、彼がこの「弱さ」にだけは、たしかにアンガジェしていることが、そうである。】
この「弱さ」の取り出し方が、加藤典洋という批評家の、そして『アメリカの影』という本のオリジナルだと思います。当時の文壇では例外的に唯一、『なんとなく、クリスタル』を高く評価した江藤淳という批評家の思考を、批判的に継承するラインが、おそらくこのあたりにある。
筆者の勝手な見取りでは、スパゲッティのうんちくを述べる男の子は、極東の島国で、イタリアの貧乏な南部ではなく、北部エスタブリッシュメントの流儀を採用する自分の「みじめさ」をハッキリ、自覚しています。それはアメリカなしで日本はやっていけないことを知る者の「みじめさ」と通底している。そしておそらく、批評家・江藤淳にとっては、そこでスプーンとフォークの南部流を採用するのが、彼が「ヤンキー・ゴー・ホーム」の小説として非難する『限りなく透明に近いブルー』であり、その無神経さ=「弱さ」の欠如に耐え難い「批評精神」の欠如を見るのでしょう。
1985年、プラザ合意が成され、いよいよバブル経済の狂騒に突入しようかという年に上梓された『アメリカの影』。そこから10年後、戦後50年の節目であり、阪神・淡路大震災とオウム事件という2つの凶事によって刻印される1995年に登場した、『アメリカの影』の続編といっても過言ではない「敗戦後論」。やがて『アメリカの影』は講談社学術文庫に入り、それが絶版になると今度は文芸文庫で息を吹き返しました。この射程の長さは検討に値すると思います。
『アメリカの影』というタイトルにもかかわらず、この本には実はあまりアメリカのことが書いてありません。書いてあるのは「影」についてなのです。影の射している日本の暗さ。「弱さ」。
筆者は、この『アメリカの影』という本を読むと、田中康夫という人が政治の道に進んだことが少しも意外ではないということがわかるような気がします。彼がいまやっていることは、スパゲッティをスプーンとフォークで食べる人と、スプーンだけで食べる人が互いの流儀について報告し合い、それらの流儀の選択が、この国の「みじめさ」の感覚から出発したことに思いをはせ、その「歴史」を共有しようという試みなのかもしれません。
海外志向や、ましてブランド志向なんかぜんぜん希薄なロスジェネ世代の人にも、ぜひ、読んでみてほしい1冊です。