この連載、気がついたらずいぶん前回から時間が経過してしまいました。怠惰の罪はもとよりわがアキレス腱ですが、また書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
今回紹介するのは批評家・加藤典洋氏の処女作『アメリカの影』です。処女作にはその書き手のすべてが集約されている、などとしばしば言われますが、まあそこまで言うのはいささか神話めいてはいるものの当たらずとも遠からずで、終生追い求めることになるテーマや関心事への言及、その後に作り上げていく思考のアーキタイプが認められることは少なくないと思います。
『アメリカの影』において語られる、この日本という国の、「戦後」と呼ばれる言説空間に対する著者のまなざしは、今日に至るまで加藤氏が一貫して考え続けている事柄の延長線にあることは容易に見て取ることができます。『アメリカの影』の単行本上梓は1985年ですが、ちょうど10年後の1995年、後に大きな論争を引き起こし、批判の的になった「敗戦後論」を文芸誌の『群像』に掲載します(単行本は97年刊行)。
「敗戦後論」について適切に書く能力はまったく欠いていますが、そこで問われていたことは、憲法九条におけるいわゆる交戦権の放棄にしても、その「軍事力の放棄」をまさに連合国の圧倒的な軍事力の背景でもって認めさせられるといった事態であったり、閣僚や軍指導者が処罰されたにもかからず天皇については免責という形になったこと、さらに、靖国神社の戦犯合祀の問題など、日本という国を一つの「人格」として捉えた場合、そこで生じる「ねじれ」についてでした。加藤氏は、そのようにして成立した憲法をもう一度日本国民の主体性の下に選び直すことで「ねじれ」を是正しようと考え、特に、太平洋戦争の結果として現れた「日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か」という問いを立て、この問いの立て方が、いわゆる右派からは例によって例のごとく認識の誤りとして指弾され、左派からは新たな種類のナショナリズムとして批判にさらされたわけです。
『アメリカの影』は、10年後にそのような論を展開することになる批評家の出発点ですが、ここでは先達の批評家・江藤淳の仕事が思考の土台になります。加藤氏は、文芸批評家であり、いわゆる保守の論壇に立つ論客でもある江藤淳の占領史研究や、苛烈な戦後言説空間批判をていねいに読みながら、そこにある奇妙な「弱さ」を発見していきます。
【江藤は、日本の戦後は巧みな米国の占領政策に領導されてきたという。その米国の占領政策の本質を最もよく示しているのは、表と裏二様の機関によって遂行された米占領軍による検閲である。検閲は、「自由」と「民主主義」の伝播という外見の下に、日本を将来にわたり米国にとって脅威たらしめないことをひそかな第一義の目的として進められた。(中略)しかし、ここでどうしてもわからないのは、江藤がこのことに関して日本の戦後文学、戦後知識人を痛烈に批判、避難する一方で、なぜ当事者の米国を名指しで批判しないのか、というその理由である。】
検閲をさせられた側、受け入れさせられた側の日本の知識人を批判しながら、「させた」側の当事者であるアメリカに触れない江藤の「弱さ」。この「弱さ」とは何かという点に加藤氏は注目していきます。
【江藤は日米関係をこれまでしばしば――日本が敗戦ではじめて国家としての処女性を失ったというが如き――性的なイメージで語ってきたが、江藤のアメリカをめぐる錯綜した屈折心理を考え、田中の小説に漂う「弱さ」に眼を配って思いあたるのは、この性的メタファーの向こうに透けてみえる、ぼく達にとっての「アメリカ」の影の大きさである。】
ここでいう「田中の小説」とは、そう、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のことです。『アメリカの影』という本のおもしろさは、自らが発見した(と考える)先行批評家の「弱さ」を突いてそれをご破算にし、更地の上に自分の批評を構築するという態度を取らず、むしろ「弱さ」をこそ大事に取り出しながら、しかしその「弱さ」の中に切実に現れている本質を批判的に継承することにあると思います。
【「結局ね、ブランドに弱いんだよね。僕らの世代って。ま、僕らの世代というより、日本人全体がそうなのかな。」
「多分、そうなんじゃない。」
(……)
ブランドにこだわるなんてことは、バニティーなのかな、と考えてしまう。でも、それで気分が良くなるのならいいじゃないか、とも思えてくる。ブランドが、ひとつのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも同じなのだから。】
おそらく、いまの「ロスジェネ」世代が読んだら、噴飯ものの記述かもしれません。「バニティーなのかな」って何だよ? 「ブランドが、ひとつのアイデンティティーを示すことは、どこの世界でも同じ」だって何それ?
ここで極めてプライベートな思い出を語ってしまいますが、筆者はどういうわけか、初めてこの『なんとなく、クリスタル』が旭屋書店銀座店(2008年4月に閉店した時はマジメにショックでした)に平積みにされていた時の光景を鮮明に憶えているのです。1981年2月25日、早稲田大学第一文学部の受験日でした。北関東の地方都市から2時間かけて各駅停車の東北本線で上京した18歳の私は、試験が終わって早稲田の構内を歩いている時に、やはり受験に来ていた高校の同級生に声をかけられ、「有楽町に寄っていかないか?」と、誘われます。その同級生Yは大の映画好きであり、実際、後に東映に就職しましたが、彼にとっては日比谷・有楽町・銀座の映画街は聖地であり、上京したら無条件に訪れなければ気がすまない場所でした。
高田馬場からいったい何線に乗ってどう行けば有楽町なる街に行けるのか、そんなことはすべてYに任せ、たどり着いた有楽町で満足気に映画の看板を見上げて歩く友人を横目に、私はといえば東京の書店で何か本を買って帰りたいような気分があり、都合よく数寄屋橋交叉点に向かって左手に旭屋書店があって、そこに入ってまず最初に目に飛び込んできたのが『なんとなく、クリスタル』だったのです(平台の位置まで正確に憶えています)。