「人の中心は情緒」なのですから、もちろん数学にとっていちばん大事なのも情緒で、数学オンチの私などは、「数学」といえばクールでシャープなもの、というイメージで、それが「情緒」だなんて、へええ、という感じですが、その情緒としての数学の最大の喜びは「発見」にあるとして、次のような体験を語っています。
【夏休みに九州島原の知人の家で二週間ほど滞在し、碁を打ちながら考えこんでいたあとのことで、帰る直前に雲仙岳へ自動車で案内してもらったが、途中、トンネルを抜けてそれまで見えなかった海がパッと直下に見えたとたん、ぶつかっていた難問が解けてしまった。】
【セーヌ川に沿ったパリ郊外の、きれいな森のある高台に下宿していたが、ある問題を考え続けながら散歩しているうち、森を抜けて広々したところへ出た。そこから下の風景をながめていたとき、考えが自然に一つの方向に動き出して発見をした。】
いずれも自然が発見に深く関与しています。そこにどんな「情緒」の形成があったのか。とっても生命を感じる一文です。さすが、昭和天皇から「数学とはどういう学問ですか?」と聞かれ、「生命の燃焼であります」と答えた人らしいと思います。
『春宵十話』は、引用したくなる箇所がたくさんあって困ってしまうんですが、自分の好きな芸術や作家を語る際の目の付け処も、思わず理屈ぬきにうなってしまうようなものがあります。芥川龍之介を「命がけで芸術に取り組んだ人」と認識する岡潔は、芥川のこんな所に深く惹かれます。
【また、いよいよ創作で身を立てようと決めたとき、友人と町を散歩していると、町のはずれで電線が切れてその端が雨水のたまりにふれ、紫の火花が散っているのを見た。そのとき自分は他の何物を捨ててもこの紫の火花はとっておきたいと思ったと書いている。】
「とっておきたいと思った」芥川もすごいし、そこに感応する岡潔もすごい。ああ、またドキドキします。
今回のレビューで引いたいくつかの引用から、岡潔の特異性、しかしそれはおよそ個性などというつまらないものを超えた、大いなる無私に触れているような、そのようなあり方をいくらか感じていただけたのではないかと思います。
いちばん最初の引用で、颯爽とした啖呵が出てきましたが、私はそのテキストの中で、「スミレ」に注目してみたい気がしています。「ヒマワリはヒマワリのように咲けばよいのであって」ではなく「バラはバラのように……」でもなく、なぜスミレなのか。日本はスミレの種類が60種類近くある国として有名で、一説には日本が世界一、スミレの種類の多い国という人もあるそうですが、やはりここで岡潔は「日本」を見ていたと思います。そこには、世間と没交渉を貫いていた孤高の数学者の姿も重ね合わせることができそうです。岡潔にとって、「日本」とはヒマワリでもバラでもなくスミレであり、そして、数学とは情緒であり、野に咲くスミレなのでした。
最後に、1枚の写真をぜひ、ご覧いただきたいと思います。ちょっと下にスクロールしていただくと、モノクロの写真が出てきます(こういうことがすぐできちゃうのが、webレビューのいいところですね)。
http://www.1101.com/nakazawa/2006-01-12.html
もうなにも、これについては言いません。少なくとも、近代日本の知識人のポートレートで、こんなヘンな写真が残っているのは岡潔だけです。
岡潔って、こういう人なんです。ここまで読んでくださった皆さんが、「さもありなん」と思ってくださるとよいのですが。