なにかゴールデンウィークがあけたら、一気に暑くなってしまいました。5月といえば本来なら、晩春から初夏という季節です。「初夏」のほうはともかく、この「晩春」という言葉、今ではほとんど実感を伴わないものになってしまったような気がします。寒さと暑さが行きつ戻りつするような、まだ油断のならない時期もどうやら過ぎて、しかしまだ汗ばむほどではない、そんな、身も心もホッとゆるむような、ほんの短い時間。ジューン・ブライドより一足早く、小津安二郎の『晩春』で娘の結婚があり、井伏鱒二の『晩春の旅』では水ぬるむ日本の風土が描写される。
もうそういう季節は、望めないものなのでしょうか。
ここに『春宵十話』という、なかなかけっこうな題名を持つ1冊の本があります。作者は数学者の岡潔。1963年に毎日新聞社から発刊され、理系の学者の本としては異例の売れ行きをみせて、ベストセラーと呼べるほどの存在になりました。ちなみにこの本は、岡潔自身が書き記したものではなく、口述筆記によるものです。毎日新聞社の記者が、なんとか岡潔にエッセイを書かせようとしたものの、世間と没交渉で、研究時間を取られたくない岡は首をタテに振らない。それでも粘って口説いたところ「そうまで言うなら口述で」ということになったというのが事の次第です。忠実な口述を心がけたまでのことかもしれませんが、それにしても『春宵十話』の、率直かつ流麗な日本語の連鎖は実に見事です。岡潔を熱心に口説き、熱を帯びつつも水のように無私に流れるそのテキストを抽出することに成功した記者の名は、当時、毎日新聞奈良支局にいた松村洋。この人の名は記憶していてよいと思います。昔の新聞記者というのは、レベルが高かったんですね(いや、他意はありません…… もう遅いか)。
『春宵十話』は69年に角川文庫に入り、この文庫は今でも古本屋の均一台でよく見かけます。そして今から3年前の2006年に久方ぶりにまた光文社から復刊され、いままた<2009年・日本人として読むべき「品格」の書>という帯の惹句と共に、4刷まで行っています。戦後日本の知識人による、代表的な名著の一つといっていいと思います。
で、「なんで2006年に復刊なのか?」ということですが、おそらく(十中八九、当たってると思いますが)、あのバカ売れした『国家の品格』という本のせいでしょう。『国家の品格』が出たのが2005年11月ですし、著者の藤原正彦は岡潔を敬愛する同じく数学者だし、ホラ、惹句に「品格」って……。これじゃあ、誰だって察しがつきますね。
で、わたくしは『春宵十話』を「品格の書」としてではなく、「なんだこのヘンな本は! 唖然とするほどおもしろい」と、読んだのです。
【人の中心は情緒である。情緒には民族の違いによっていろいろな色調のものがある。たとえば春の野にさまざまな色どりの草花があるようなものである。(中略)私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。】
冒頭の、有名な一説です。いいですねえ。涼しげな啖呵というものがあるとしたら、こういうのを言うのじゃないでしょうか。「民族」という言葉が出てきて少しドキッとしますが、岡潔という人は、西洋というものがどうやら好きじゃなかったようです。数学者でありながら、自然に深い関心を持っていました。宗教、特に仏教に惹かれていました。芸術と数学の類似と相違について語ったりしました。
【宗教と理性とは世界が異なっている。簡単にいうと、人の悲しみがわかるというところに留まって活動しておれば理性の世界だが、人が悲しんでいるから自分も悲しいという道をどんどん先に進むと宗教の世界に入ってしまう。】
これもスゴい。実にシンプルですが、でも、こんなこと言う人、なかなかいないのじゃないですか? 説得力がある、というのとも少し違う。岡潔という人は、だいたいいつも断言しちゃうんですね。これこれはこれこれであると言い切っちゃう。しかし、不思議とそこには、他者の蒙昧を嗤って、自説を通そうという我のようなものが感じられない。
また細かいことを言うようですが、私はこのテキストでは、「どんどん先に進むと」という所がドキドキします。ちょっと、怖い。そして、深い。