『片隅の迷路』は、そのタイトルのとおり、社会の片隅の、しかも迷路になって容易に出口が見つからない、そういう場所で生きる人々を描いた小説です。ここには告発の調子は見られません。少なくとも、検察や裁判官に向かってのみ、攻撃が発せられるということがありません。ストーリーテリングを淡々とこなしてきた開高が、突然堰を切ったように作者その人自身として語りだす箇所では、呪詛の声はむしろ読者(=良識ある市民?)に向けられます。
【ひまがあったら読者は読まれるといい。なにを? 「判例文集」である。明治以降の「判例文集」である。これほどおもしろくてゾクゾク寒くなってくる物語はほかにない。ここには訴えられた人間と、訴えた人間と、裁いた人間、ここ七、八十年間の、つまり私たちの生活を左右する、ありとあらゆる“理屈”が、だしつくされ、きわめつくされ、ためしつくされているのである。ここには日本人の、ここ七、八十年間の、ありとあらゆる叫びと苦悩とそれを処理した“理屈”が集大成されているのである。これはある意味で夏目漱石よりも、芥川龍之介よりも、あるいは小林多喜二よりも、宮本百合子よりも興奮をさそう、巨大な紙のピラミッドである。なぜか。あらゆるものが避けようもなく赤裸々であり、むきだしであるからだ。今日は帝劇、明日は三越もあるものか。モボも、モガも、文化住宅も、クソも、ヘッタクレも、有楽町で会いましょうも、レジャー・ブームも、安定ムードも、あるものか。】
人が人を裁く。その、根本的な難題を考える時、最終的で決定的な解決法などはどこにも存在しないでしょう。そこでは、状況を俯瞰しうる立場に立てる人はいない。だからせめて、その場所を迷路にしないこと。片隅から、少しでも多くの人々の視野に入るような中央部に持ってくること。法律や、メディアや、良識というものにできるのは、おそらくそのことでしょう。
『片隅の迷路』を読むと、ある小説がまさに小説として面白いということが、とても罰当たりなことでもあるという事実に気づかされます。しかし、面白いものはやっぱり面白い。
さて皆さん、裁判員に選ばれちゃったら、どうします? 私が考えていることは、2つあります。
(1)誠実に職務をこなし、「疑わしきは罰せず」を貫徹すべく闘争する。
(2)サボタージュにすべてをかける。「だって今日は、神保町で書窓展(古書の即売会のことです)だもん、裁判どころじゃねえだろ」とか言って、逃れる。
(1)が表回答、(2)が裏回答といったところですが、しかしこれ、同時に遂行できないところが困ったなあ……
ほんと皆さん、どうします?