ラジオ商(現在の町の電気屋さんみたいなもの)が農機具店に代わってはいますが、それ以外は、ほぼ事実に忠実にストーリーが進んでいきます。警察および捜査の杜撰さ以上に、検察の問題が浮き彫りになった事件であること。ついに凶器および真犯人が見つからなかったこと。死後再審が行なわれた、日本で最初の判例であること。
以前、ある映画監督にインタビューした際、「日本映画では、法廷劇が成立しない」という話が出たことがあります。それはつまるところ、日本の裁判制度に起因する、というのです。日本では、弁護士なり検事なりが主張を行なう際、裁判官という唯一絶対の神に向かってこれを行なうほかない。ところがイギリスやアメリカといった陪審員制度のある国では、弁護士なり検事の言論は陪審員という一般の市民を説得することに向けられるため、よりパフォーマティブになります。そこに俳優の演技の幅が生まれ、弁護士、陪審員、傍聴席、被告、裁判官と、複雑に交錯する視線の劇が成立する余地があるというわけです。
いま、「イギリスやアメリカといった陪審員制度のある国」という書き方をしましたが、特にハリウッドの法廷劇映画などをみていて感じるのは、これは単なる勘ですが、陪審員制度というものは、基本的にアングロサクソン的なものだという気がします。それはまたどことなく、ミステリというものがもともとアングロサクソン的なものであったということとつながっている気がしないでもない。さらに、アングロサクソンの世界が、事実宣言的(コンスタティブ)な成文法ではなく、行為遂行的(パフォーマティブ)な判例主義を取っていることともつながっている……。
いや、素人の勘はこれくらいにしましょう。『片隅の迷路』では、陪審員制度などまったく遠い世界の話であった1950年代の日本の相貌が描かれます。60年代初頭の若き開高、まだベトナムと係わる前のこの小説家によって、冷徹かつ執拗な、そして淡々とした記述が続いていきます。そのやりきれなさの描き方は見事です。
【竜子は顔を伏せたまま横眼でそっとうかがった。四十五、六歳くらいの女であった。なにもいわないが横顔が熱心な表情をうかべていた。法廷にでるために着かえてきたらしい様子はあったが、どちらかといえばみすぼらしい、疲れた女であった。市場の魚屋や八百屋の店さきでいつまでも魚や野菜をいじっているような女である。(中略)一つの顔を四十年使ってすりへらし、頭のなかにたくさんひきだしをつくっていて、一つのひきだしに一つの諺を入れ、悲しむときも喜ぶときも諺を使う。夫には厄介がられ、だまされる。苦痛も歓喜も一度に味わいつくさず、少しずつ少しずつ、口のなかでドロップをすりへらすようにちびちびなめて消してゆく。】
これは、被告である竜子に検事が無期懲役を求刑した際、傍聴席からいっせいに拍手をした市井の女たちのうちの1人について、当の竜子から見た視点です。この、なんという忌々しさ。悲しさ。正確さ。
小説だなぁ、と感じ入る箇所だと思うのです。被告・竜子の眼となった作家・開高健の筆は、この女性の恥知らずな振る舞いを断罪するために書いているのではないことは明白でしょう。もちろん、冤罪へと雪崩打つように落とされていく竜子に対する、加虐的な効果ばかりでもない。いわばここには、1950年代の日本の女の、2種類(いや、1種類かもしれません)のどうしようもない悲しみが横たわっていて、それが直視されているわけです。これが、文学だと思います。