全国民が等しくカップ焼きそばを配給される全体主義社会であったとしたら、3口食べて「まずい」と言って捨ててしまうのもいいだろう。だが、私たちは戦後、そういう社会を拒否した(押し付け憲法と言われるが、GHQは日本の在野の研究者らによる「主権在民」をうたった憲法私案を検討した上で、新憲法草案を起こしたことが今では知られている)。
民主主義社会において、私にはカップ焼きそばを食べる自由と権利が保障されているが、だからこそ一度食べ始めたカップ焼きそばに対して責任を負わねばならない。実際には気力、体力及ばずして残すこともありえる。そのときは激しい後悔に身を焦がすべきだ。カップ焼きそばを食べる自由と権利を、いたずらにもてあそんでしまった自らの過ちにさいなまれるべきだ。
本来、権利と権利の相克としての冷たい民主主義を、かろうじて人間らしい温かい営みにしているのは、そういう「覚悟」である。「矜持」と言い換えてもいいかもしれない。小難しく聞こえるが、分かりやすく言えば「やせがまん」のことである。日本ではそれを遠慮とか謙譲といった対人関係に当てはめるが、もともとは自分自身の生き方の問題だ。
電車から降りる客の流れが完全に切れるまで、扉のわきでじっと辛抱するのも、一つの覚悟であり矜持である。私は降りる客を押しのけ、われ先に空いた席に座ることもできる。どうするか、選ぶのは自分だ。ただ、他人を疑ってかかるのが民主主義の前提だとしても、それでもやはり、民主主義の帰結として他人を信じることに決めたのである。他人は私を裏切るだろうが、私はそう覚悟した私自身を裏切るまいと思う。そして同時に、老いによって覚悟が続かなくなることを恐れるのだ。
とはいえ、である。私がラッシュアワーに電車に乗るのは週にせいぜい一、二度だけれども、毎朝そのような覚悟で「民主主義」を実践していては、交感神経優位の状態が収まらず、いずれ心身をすり減らしてしまうことだろう。結局、早死には避けられない。早死にしたくなければ「覚悟」を捨てるしかない。やせがまんをやめて、老醜をさらして電車の空席を漁るのだ。長生きをするためには老いなければならない。だから、長生きをしている人の多くは老人なのだ。
さて、ここまでが今回の前置きである。われながらあきれるほど冗長である。さらに、現時点ではこれをどう本題とつなげていけばよいか、まったく不明である。それでも、先が見えないことに踏み出せるのは老化がそれほど進行していない証しであり、その点で私は満足している。老人はよく「先が見えた」と言う。本当だったら私は虎の子の貯金を全部預けて馬券を買ってもらう。千里眼じゃあるまいし、である。慮るに「これより上は望むべくもない」ということをわきまえた、と言いたいのだろう。その見通しはおそらく正しいが、大事なことを忘れている。「これより下」に落ち込む可能性が眼中にない。
今回紹介する『ハッピー・リタイアメント』は、国家公務員の「天下り」が題材となっている。舞台は東京・神田にある「全国中小企業振興会(略称:JAMS)」という政府系金融機関の神田分室。JAMSの主な業務は、中小企業が市中銀行から事業資金を借りる際に「債務保証」を与えることだ。つまり、企業の返済が滞ったらその借金を肩代わりする。もちろんチャラになるわけではなく、企業はJAMS相手に借金を返す義務が生じる。しかし、返済されない借金(不良債権)も当然出てくる。その中で、時効を迎えて法的には請求権を失った塩漬けの債権を管理しているセクションが、神田分室だ。
カネを借りた相手にカネを返せと言う根拠がすでにないのだから、実質的に業務と呼べるものはない。カラ証文となった借用書が毎年、ただ引き継がれていく。では、神田分室が何のために存在しているのかといえば、各省庁からの天下りの受け皿として、である。キャリア組は「参事」、ノンキャリア組は「主査」の肩書きと部屋が与えられ、午前9時に出勤して読書とネットサーフィンと昼寝をし、午後5時になったら帰る。それでいて現役時代と同レベルの報酬が保障され、いずれは二度目の退職金がもらえるのだ。
そこに財務省で肩たたきにあった元課長補佐と、自衛隊を退官した元2等陸佐(退職で1階級特進して1等陸佐。衛門1佐というらしい)がやってくる。ともにノンキャリア出身の55歳。二人は着任早々、彼らの秘書兼庶務係の女性(40代半ばの、いわゆるいい女)から「神田分室には仕事なんてない」と断言される。国家公務員採用Ⅰ種試験合格者でも防衛大学校出身でもなく、苦労に苦労を重ねて一応幹部の仲間入りをした「たたき上げ」が、サラリーマンにとっては桃源郷とも言うべき職場環境に驚き、当惑する様子がユーモラスに描かれる。
元2等陸佐が「娑婆」では昼休憩に入るときに「食事ラッパ」が鳴らないことに「拍子抜け」をしたり、元課長補佐に誘われてハンバーガーを生まれて初めてテイクアウトし、「こんなうまい物を食ったのは、入隊前に地方連絡部の人拐いのような勧誘員に連れられて、東千歳の駐屯地食堂で初めて口にしたスキヤキ以来であった」といちいち感動したり、小技的なくすぐりがちりばめられているのは、元自衛官の経歴を持つ作者としては読者に対する「お約束」でもあるだろう。
本の帯にはこうある。〈最高の人生とは〝たいそうな給料をもらい、テキトーに仕事をする〟ことである〉。一見これがいわゆる「ハッピー・リタイアメント(幸せな第二の人生)」の定義かと思わせるのだが、本を読み進めるうちにそれは「命題」であり、果たして真か偽か――を読者に問いかけているのだということが分かってくる。
元課長補佐が初出勤の日、神田分室を仕切る一人の理事に着任あいさつをする場面がある。元課長補佐は、理事がかつて自分を手足として使ってきた財務省の元局長であることを知り、息をのむ。こいつにはさんざん尻ぬぐいをさせられ、嫌な思いをさせられてきた。またしてもこいつの下で働かなければならないのか(仕事と呼べる仕事はないのだけれど)。元課長補佐は内心身もだえしたが、逆らえばサラリーマンの桃源郷を手放さなければならない。「お引き立て下さって、ありがとうございました」。そう言って元課長補佐は元局長に向かって頭を下げるのだ。それまでややファンタジーめいていた小説が、一気に現実感を帯びる瞬間である。