切手集め、といえば、だいたい四十歳くらいまでの人なら、程度の差はあれ、子供時代に一度はハマった経験があるのではないだろうか。比較的安価な複製品であり、嵩も張らず、子供にも手の届く切手という小宇宙は、ある時代・ある場所にしか流通していなかったものをいま、目の前に所有してみせる愉しみとして、多くの少年少女に愛好された。大人の本格的な蒐集家ならいざ知らず、ごく一般的にはどちらかといえば男の子のほうがより熱心であり、それは、蒐集すること=征服すること、という、より子供じみた(?)ストレートな欲求に、男子のほうがやはり忠実だった、ということなのかもしれない。
しかし、その切手に対する情熱が、長じてからもなお持続した場合、あるいは大人になってからめざめた場合、そこには女も男もない。そして、子供時代の切手蒐集の多くが日本国内の切手に限定されるのに対して(世界の切手に向かって開かれている子供もいるだろうが、やはりそれは恵まれた環境だと思う)、大人のそれは世界中に開かれており、デザイン、色彩、体裁、描かれるモチーフなどなど、めくるめく多彩な大宇宙が展開されるのである。
『切手帖とピンセット』(これこそ、ある時代までの子供たちのマストアイテムだ)と題されたこの本は、副題に「1960年代グラフィック切手蒐集の愉しみ」とあるように、「1960年代」と「グラフィック」を二つの大きな柱にしている。世界的に切手が最も輝いていたとされる1960年代にフォーカスを絞ること。切手に描かれた図案のプロバガンダや、その背景を文化史的にときほぐすというよりも、国別、あるいはテーマ別に「グラフィック」の面白さを見せることを第一義に置くこと。だから本書は当然、ビジュアルが中心であり、全ページカラー、そこに周到なキャプションとコラムを挿入した構成になっている。
筆者も実はほんの少し、世界の美しい切手を所有している(ほんの数十枚程度だが)。毎年開催される「スタンプショウ」にも足を運んだことがあり、友人・知人の薫陶を受けて(?)、その豊穣な世界のほんの一端を覗き込んだ。本書の著者・加藤郁美さんの主宰する月兎社(http://www.gettosha.com/)から、一度だけカナダの切手を購入したこともあり、一時期は毎晩、ほんの数センチメートル四方の四角いその紙切れを、飽かずに眺めていた時期もある。
【個人の海外旅行が難しかった1960年代の大人たち子供たちは、切手で世界にアクセスすることにわくわくしていたのでした。】
本書の冒頭、「切手蒐集室の午後」と題されたプロローグの中でこう述べられているが、「1960年代の人々」ではなく、「1960年代の大人たち子供たち」と書かれているのがまことに切手に相応しいという気がする。「人々」と言った時の通常のニュアンスとしては、やはりそこには子供は含まれておらず、しかしながら「わくわく」していたのは、当然、子供ばかりではないのだから、そこは「大人たち子供たち」と書かれるのが正しいのである。
「いいねえ」「キレイだねえ」と、うっとり眺めるのがいちばんいい本ではあるのだけれど、それだとレビューにならないので、この本の今日的な意味を少し言葉にしてみるとすれば、そこにはある種、プロダクトデザインが産み落とされる際の、微妙なメカニズムのようなものが透けて見える、ということがあると思う。
なぜ1960年代に切手が輝いていたかといえば、第二次大戦の荒廃から立ち直り、高度な資本主義社会に突き進んでいく西側陣営と、今日とはまったく比較にならないほど大きな社会主義陣営、すなわち東側が拮抗しいていた時代である点がまず、大きい。そして、世界的に消費社会が拡大して、マーケットが強大なものになったことが、切手の生産と洗練に拍車をかけたのである。
切手蒐集家のあいだでは自明のことなのだが、本書を開いてまず気付くことは、東欧諸国やソ連、北欧、南米、アジアなど、すなわち「非西欧」においてこそ、優れた美しい切手が生まれた、という事実である。より良い切手を制作し、外貨を多く獲得することは、社会主義国家にとってはまさに国家的プロジェクトであり、だからデザイナーも職人も、最大限の敬意とともに育成が図られた。本書を眺めること、読むことは、アメリカやイギリス、ドイツといった、今日の世界経済をリードする、いわゆる「先進国」の文化ではなく、よりマージナルなプロダクトを見ることであり、その絶妙のマイノリティぶりが、世界の多様性に触れることでもあり、そこが「わくわく」の源泉なのではないか。
具体例を挙げれば、レバノン共和国といえば、パレスチナ問題の渦中にある、非常にきな臭い、危険な国というイメージが支配的である。ところが『切手帖とピンセット』では、実に精妙で、かつ、知的に洗練されたイスラム文化の昇華としての、1960年代レバノン切手の数々を見せてくれる。そこには、「中東のパリ」と呼ばれ、数世紀に渡ってキリスト教徒とイスラム教徒が政治的均衡を保ってきたこの国ならではの「フランス風の自由で文化的な空気」が確かに息づいているように見えるのである。
このあたりの感覚を、著者は次のように表現している。
【切手を蒐めだしていちばんおもしろいのは、この国にはこんなデザイン文化があったんだ! という驚きではないでしょうか。何もイメージできなかった国名に集積されていく画像(イメージ)と印象(イメージ)。というわけでオリンピック開会式はかなり興奮状態。「トリニダード・トバコ!」などのアナウンスで浮かぶ画像の数々。切手で仕入れた情報が頭の中をグルグルします。】
なるほど確かに、本書のページをめくることは、オリンピックの開会式をTV中継で観ることに、かなりよく似ている。そこでは、まさに「見ること」こそが世界に向けられた窓である。「オレはこんなにたくさんの切手を持っている」ということよりも、「まだまだ世界には、私の知らないたくさんの文化があり、デザインがあり、切手がある」という発見の歓びのほうが、はるかに大きく、根本的なものだということを雄弁に語っているのが、『切手帖とピンセット』という本なのだろう。
切手は社会で流通させるための実用品であり、郵便を支えるアイデアの一つである。だから、本来は芸術品でもなければ蒐集の対象でもなく、少数の例外(本書にも紹介されている不世出の天才凹版彫版師 チェスラフ・スラニアなど)を除き、一個人が制作者として記憶されるようなものでもない、そうしたありふれた公共物としての切手が、これだけ世界的に多くの蒐集家、愛好家を生み、ため息が出るほど美しいそれを生産し続けてきたという事実には、芸術とは何か、国家とは何か、グラフィックデザインとは何か、といった事柄を根本的にみつめなおす、ある重要な契機が含まれているように思えてならない。
『切手帖とピンセット』は、そうした思考をふと発動させるとともに、もちろん、至福の目の歓びを生み出す、鮮やかなビジュアル(掲載されている切手の種類は、全部で1154点!)がギッシリつまった本である。祖父江慎+福島よし恵によるブックデザインがまた、カバー、表紙、帯、本文紙、レイアウト、そのすべてにおいて、にぎやかさと楽しさを演出しており、本書の内容にピッタリ沿ったものになっている。
ビジュアル中心の本であることを承知しつつ、あともう少し、読み物があったらなあ、という願望を加味して、微妙に☆☆☆☆★ と、しておきます。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |