NHKでドラマ『坂の上の雲』が始まりました。秋山兄弟と並ぶ主人公の一人・正岡子規に興味があるのと、子規の妹・律を演じているのが菅野美穂(好きなんです)だったりすることもあり、さっそく、第一回目の放映を見てみました。最初の回というのは、どうしても物語全体の見取り図を視聴者に理解してもらおうという意図が強くなり、また登場人物の紹介もしなければいけないので、説明過多になりがちです。『坂の上の雲』も、まったくもって例外ではありませんが、そうした事情を差し引いても、どうも今のところ、画面の躍動感に乏しく、ロケーションと美術と、あとは俳優の力で、なんとか情感をみなぎらせようと躍起になっているように感じられます。つまり、圧倒的に画が弱い。
しかし、司馬遼太郎原作(文春文庫で全八巻)の『坂の上の雲』への世間の注目度は、なかなかのものではないでしょうか。むろん、NHKがバンバン宣伝しているということもありますが、たぶん、それだけではない。なんというか、日本人全体の、明治という時代への憧れと郷愁がベースにあるような気がします。いま生きている日本人で、明治生まれの方々はだいぶ少なくなってしまい、明治を知らない人ばかりになったわけですが、それでも「無意識の国民的郷愁」ともいうべきものが、漂っているような気がします。
【私は別に「大きな物語」がよくて、専門研究がダメだと言っているのではありません。そうではなくて、トーブさん(注)や司馬さんと同じような「大きな物語」を書くタイプの知識人が近年あまりに少数になってしまったことをいささか心寂しく思っているのです。というわけで、本書では、縦横に奇説怪論を語り、奇中実をとらえ怪中真を掬(きく)して自ら資すという、当今まったく流行らなくなった明治書生の風儀を蘇生させたいと思っております。】
(注)トーブさん 未来学者、ローレンス・トーブ氏のこと。遠からず、中国、南北朝鮮、台湾、日本を統合した「コンフューシア」(儒教圏)の共同体ができる、という「大風呂敷」な議論を展開した著作『3つの原理』(ダイヤモンド社)がある。
「あ、これかな?」と思う言葉を、内田樹著『日本辺境論』の中に見つけました。「大きな物語」です。明治という時代への郷愁を、きっと色々な角度から見ることが可能だと思いますが、「大きな物語への郷愁」としてみると、とてもピッタリします。明治という時代は、西洋列強に追いつき、一刻も早く世界に冠たる近代国家になろうとする、国民全体の「大きな物語」がありました。むろんそれは、西洋諸国からは「猿真似」にしか見えなかったし、ロシアのような大国に戦争で勝ってしまったために、そこからどんどん一流国としての自意識が肥大し、やがて第二次大戦の悲劇につながり、その反動で戦後は「大きな物語」を積極的に駆逐しました。あげく、「最近の日本人は、小粒になった」みたいな物言いが出てきたわけです。郷愁とは、やはり「小」が「大」に思いを馳せる感覚ではないでしょうか。
『日本辺境論』は、その名のとおり、日本をその「辺境」性において見るという試みです。実に「ビッグ・ピクチャー」(大風呂敷)的なタイトルです。日本人は、もちろん自尊心はあるんだけれど(それが無い民族なんかいませんよね)、しかしなんとなく「ほんとうの文化」というのはどこか他所の国や地域にあって、微妙に劣等感を持っている。その劣等感が、あれほど大量の「日本論」「日本文化論」が書かれている(世界中で、日本人ほど自国の文化論が好きな国民はいない)理由で、いま、日本は世界レベルでどのへんにいるのかとか、外国人は日本をどう思っているかとか、思想の輸入に熱心だったりとか、要するに、すごく「きょろきょろ」している。「きょろきょろ」というのは丸山眞男の言葉ですが、およそそんなことがこの本には書いてあります。
これだけで要約してしまうと、すぐに威勢のいいことを言いたがる保守思想の人々を揶揄したような本だと思われるかもしれませんが、ぜんぜんそうじゃありません。だって『日本辺境論』は、「そんな日本、いいじゃん。これでやっていこう」という本なのですから。
【なにしろ、こんな国は歴史上、他に類例を見ないのです。それが歴史に登場し、今まで生き延びてきている以上、そこに固有の召命があると考えることは可能です。日本を「ふつうの国」にしようと空しく努力するより(どうせ無理なんですから)、こんな変わった国の人間にしかできないことがあるとしたら、それは何かを考える方がいい。その方が私たちだって楽しいし、諸国民にとっても有意義でしょう。】
うーん。イイですねえ。これまた実に大雑把な言い放ち方です(そういう箇所ばかり引用しているという話もありますが……)。いったい「ふつうの」学者が、「召命」だとか「楽しい」「有意義」なんて書くでしょうか。とても風通しのいい文章です。
「辺境」という概念はそもそも、中華思想の「中華」に対しての「辺境」ということです。地理的にもアジアの辺境にある日本は、言うまでもなく中国大陸の圧倒的な文化に対し、憧れも劣等感もあり、それらは千数百年の歴史にわたって日本人の中に沁み込んでいる。『日本辺境論』は、そういう「辺境」性を逆手に取るとか、世界の中心の陰に隠れていつのまにか成熟を遂げるとか、そういうセコい戦略性みたいなことは一切書いていなくて、「要するにそういう国なんだし、今後も変わんないと思いますよー」ということを言っています。
たぶん、本書でいちばん難解なのは、第Ⅲ部の「「機」の思想」のところで、これは自らも武道家であり、身体論も多く書いてきた内田氏ならではの展開です。「機」というのは独特の時間概念ですが、とてもここで的確に説明はできないので、申し訳ないですが直接、本書にあたってください。ここで著者は、「辺境」性の、あまり良いとはいえない部分について、ハッとするようなことをたくさん書いています。
【私たちは辺境にいる。中心から遠く隔絶している。だから、ここまで叡智が届くには長い距離を踏破する必要がある。私たちはそう考えます。それはいいのです。(中略)霊的成熟は、どこかの他の土地において、誰か「霊的な先進者」が引き受けるべき仕事であり、私たちはいずれ遠方から到来するであろうその余沢に浴する機会を待っているだけでよい。そういう腰の引け方は無神論者の傲岸や原理主義者の狂信に比べればはるかに穏当なものでありますけれど、その代償として、鋭く、緊張感のある宗教感覚の発達を阻んでしまう。】
確かに、「鋭く、緊張感のある宗教感覚」なんて、私たちは持ち合わせていません。
【日本人はどんな技術でも「道」にしてしまうと言われます。柔道、剣道、華道、茶道、香道……なんにでも「道」が付きます。このような社会は日本の他にはあまり存在しません。この「道」の繁昌は実は「切迫していない」という日本人の辺境的宗教性と深いつながりがあると私は思っています。】
なんというご明察。こんな考え方、初めて知りました。いや、確かに。「道」とは、いつか最終地にたどり着くもの、ですから、とりあえずいまはずいぶん手前にいてもよいということになる。長くけわしい、ロング・アンド・ワインディング・ロードを行く、なんつって、あれって実は「自分はまだ未熟だから、今はできませんけど……」という言い訳の成り立つ場所だったのだな。なんと「道」というのは、エクスキューズのことだったのです。
今までもそうだったし、それってきっと変えられないものだから、だったらそういう国として、できることをやっていこう。ヘンな国でもまあ、いいじゃん。『日本辺境論』は、そういう本です。たしかに「日本はエラい」という「偏狭」より、「辺境」のほうがいい。しかし、ここには「辺境」ゆえの弱さやズルさについても書いてあるし、右翼も左翼も読んで溜飲の下がる本ではまったく無さそうです。
それにしても内田樹さんって、物事を説明するのが抜群にうまいなあ。目からウロコが、バッサバッサ落ちるので、☆☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |