都会的なアンニュイと、一筋縄ではいかない複雑な心理を持ち合わせる主人公を書かせたら天下一品。そんな作家が吉田修一だ。血なまぐさい殺人事件を扱うハードボイルドな作品もいいが、なにげない日常のひとこまを切り取って、よくぞここまでドラマティックに、と目を見張ることのできる作品もいい。本書は、後者に属する一冊である。
登場人物がすべて異なる10の短篇には、それぞれの人生における煌めきの一瞬が、紙に焼き付けられていく。
たとえば巻頭の「日々の春」では、新入社員の立野くんに先輩社員の〈私〉が惹かれるさまがスケッチされる。仕事の合間のやりとり、喫煙所での座りかたのチェック、何気なさを装った探りあい……。人を好きになりかけたときの、ふっと心が湧きたつ瞬間が十全に描かれているのだ。そして、こんな一節が。
誰かを好きになったことをゆっくりと認めることはできるかもしれない。でも、ゆっくりと誰かを好きになることはやはり不可能なような気がする。【p16】
うーん、言い得て妙。
二人はこのあとどうなるのか、というところで、舞台のライトはスパッと切れる。その暗くなった舞台上を、読者はうっとりと眺めながら、二人のその後を、あるいは自分の甘美なる恋愛の思い出を想像してしまうに違いない。
あるいは、「大阪ほのか」と題された作品では、ひさかたぶりに高校時代の仲間と再会した男の様子が描かれる。互いになじみのない街を、とぎれがちな会話ととともにさまよううちに、共通の知人が合流。その気安さからバカ騒ぎとなるが、彼はふと40歳前の独身という現実に引き戻される。ここで描かれるのは、若さを手放しつつある世代の焦燥感と諦念だが、そうまとめてしまうのに躊躇するほどに、この一夜の空気感は繊細だ。
ひとつひとつ紹介していてはキリがなくなるが、私たちが日常のときどきに遭遇する小さな出来事が、ビビッドに閉じ込められた短篇が10篇アソートされている。読むうちに、固まっていた感情がマッサージされるような感覚があじわえるだろう。一瞬を描き、人生の奥深さと人間の心の繊細さを読者に想起させるという小説の魔法を、吉田修一は使いこなしている。
ということで、☆☆☆☆。
とてもおすすめ | ☆☆☆☆☆ |
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おすすめ | ☆☆☆☆ |
まあまあ | ☆☆☆ |
あまりおすすめできない | ☆☆ |
これは困った | ☆ |