廊下に積んであった本が崩れて、浴室に閉じ込められたと思ったら、次の瞬間にはシンポジュームで秋田市に行って、そのついでに男鹿半島を観光めぐりしている。閉じ込められても、「物書き」の頭の中は自由なものである。シンポジュームの翌々日、二日間の男鹿半島の旅の締めくくりに、意を決して赤神神社の999の石段を登る。途中鶯のホーホケキョという鳴き声に励まされながらなんとか頂上の五社堂にたどり着く。
著者は神社仏閣の建物に興味があって、前から本物を見たかったのだそうだ。下着まで汗まみれになってやっとたどり着いた五社堂なのに、それを目の前にしたとき、心はふと自宅に残してきた大量の本のことを考える。「本だけは困ったな」と。「死蔵しているわけではない。このまま仕事をするかぎり、増え続ける。どうする気だ、お前」と自分に囁きかける。気になるのはやはり本のことなのだ。2LDKのアパートの浴室以外を埋め尽くした本。頭は自由に外へと往来できるが、「物書き」の心は自らを本に閉じ込めようとする。
ある日、本屋で棚を眺めていると、この本の題が目に飛び込んできた。ちょうどぼくもたまる一方の本に頭を悩ませていたときだった。地震が起きると眠っていても飛び起きて、まず本の棚を両手で押さえなくてはならない。ある小説家が新聞に、自宅の床が抜けそうなので本を大量に捨てたと書いていた。ちょうどそんな時だったから、「本が崩れる」という題は衝撃だった。
「本が崩れる」というのだから、棚から落ちてくるわけではない。本棚の前や廊下の壁にそって、高く高く積み上げられた本の山が崩れるのだ。最初は50センチぐらいの山が限界だったという。ところがだんだん積み上げの技術に長けてきて、ほとんどの山が自分の身長の174センチを超えるようになった。中には天井に届くほどの山もあるらしい。あまりにも完璧に積み上げると、今度はそれを崩すのが嫌になってくる。資料をそろえて読むのが仕事の「物書き」としては、そうなっては本末転倒である。山の下敷きになっている資料を取り出すのが億劫なために、同じものをまた買おうかと考えることもあるという。なんとすさまじい本との格闘の日々だろう。ぼくにも10年以上探し続けている本がある。本はどこかに入り込むと、もう出てこないものだから。
本が崩れたらどんな状態か、著者は自分のコンパクトカメラで撮影している。ほとんどがハードカバーの重そうな本だ。きちんと積み上げられているときは、自分の力で立っているようにも見えるが、いざ崩れてしまうと自分の重みに喘ぎ、動くこともできない。本は重い。頭の上に落ちれば怪我をするだろうし、ドアの前に崩れればドアは動かなくなるだろう。なにしろ一冊の資料を取り出すのに、山ひとつ分の本を玄関の外に出さなくてはならないという。それほど余分の空間のない暮らし。浴室以外に本がないのは、布団の上と仕事机の前の座布団の上だけ。立って移動をするには体を横にしてカニ歩きしなくてはならない。おかげで腰を痛めたり、運動不足に陥ったり。
著者が「資料もの」と呼ぶ仕事は、一冊の本を書くのに数千冊の本を読む場合もあるそうだ。一つの仕事を思いつけば、またそこから資料を集め始める。そうやって本は膨大な量になる。一仕事終わるごとに資料を捨てていけばそんなことにはならないのだが、草森さんには自分の集めた資料に愛着があってとてもそんなことはできない。代わりに生活には不要なものとしてテレビや冷蔵庫などを捨てることになる。そんな「物書き」の滑稽を草森さんはこの随筆で書きたかったのだという。そしてこの随筆では草森さんは本ではなく、自分が浴室に閉じ込められたことや、男鹿半島を旅したことなどの体験を資料にしている。その闊達な語り口に、ぼくは草森紳一を観光したような気分になった。
草森紳一の読書論についても書評を収めていますので、ぜひお楽しみください。
『本の読み方─墓場の書斎に閉じこもる』レビュワー/山本善行 書評を読む