帯に大きく「本は崩れず。」とある。草森紳一は、2008年に逝去、残された多くの蔵書は主人を失い、途方にくれ、崩れようもないのか。
本書『本の読み方』は、雑誌「ノーサイド」に連載されたもので、タイトルもそのまま使われている。「ノーサイド」は1991年から96年にかけて文藝春秋社から出ていた雑誌で、「黄金の読書」「読書名人伝」「キネマの美女」「ビートルズ同時代」など、数々の傑作を残した伝説の雑誌で、今でもその内容のすばらしさが語り継がれている。連載は、他に、武藤康史の「文学鶴亀」、川本三郎の「君美わしく」などがあった。
草森紳一は本書では、読書そのものというのではなく、読む場所、読む姿勢などを、色々な読書名人を例にあげて、紹介し解説している。そのなかで最も印象的だったのは、経済学者、河上肇の読書生活。河上肇は、書斎の中での優雅な読書生活(私の想像)から一転、獄中での限られた読書生活を経験する。獄中では昼も夜も作業があるので、読書時間は一時間二十分ほどではなかったか、と草森氏は考える。
河上肇は獄中で本を読む場所を選べない。彼は毎日便器の上に胡座して読んだという。作業がきつくて、せっかく借り出した『八宗綱要講義』や、富士川游の『真実の宗教』だけど、なかなか読む気にならないというのだ。それで『陶淵明集』や『老子』などの方に読書が傾いていったという。奥さんが差し入れのため、神田の古本屋街に出入りする様子も紹介されているが、河上肇を支える姿が美しい。
草森紳一は、読書についても、彼らしい考えを持っている。読書は中断が面白いという。読書は、中断の連続であり、別な所へ引きずりこまれたり、考え込んだりする、そこのところがいいのだというのだ。草森氏にとっては、これこそが一日たりとも本を手から離せない大きな理由なのだそうだ。
机の上に本をひろげて読むのと、寝転んで読むのとでは、どちらが疲れるか、という一見どうでもいいようなことにも草森氏はこだわっている。本を手で支えないでいい、本を机にひろげる方が楽なように思えるが、実際は寝転んで読む方が楽なのだと述べる。草森氏は家で本を読む場合、百パーセント寝転んで読んでいるのだそうだ。
このところでは、坂口安吾の読書姿勢に触れている。ちょっと分かりにくいのは、寝転んで読むのは自分の経験からも事実疲れないと書きながらも、安吾が浴衣がけで寝転び仰向けで読んでいるのを、もっとも疲れるスタイルだと書いているところだ。ということは、草森紳一は、うつ伏せになって読んでいたということなのだろう。読むときの様々なスタイルが伺えて面白い。
坂口安吾の本を読むスタイルについて、草森紳一の観察は鋭く細かい。
【この時の安吾の本(雑誌)のもちかたが、なんとも面白い。右の手は、ヒョンと雑誌を上から洗濯バサミで挟むかたちで、残りの左手は、雑誌の中央へ当てがっている。絵からでは見えないが、その五本の指はみな開いているはずだ。もちろん、雑誌を安定させるためで、頁をめくる時は、この文鎮がわりに中央へ置かれた手の「指」の一本か二本かが、ごそごそとうごめくはずである。】
この引用文はよく草森紳一を表していると思う。本を読むことに関係するあらゆることへの草森紳一の眼差しが感じ取れるではないか。本の重量を支えもってくれる人間の「手」、その動き。読書とは手の運動なのである、というのも草森紳一の言葉である。
この『本の読み方』には、他にも魅力ある読書生活が紹介されているが、読んでいるうち、読みたい本、読み返したい本が、次から次へと思い浮かび楽しむことができた。例えば、寺田寅彦のエッセイ。岩波文庫(ワイド版が読みやすい)の『柿の種』でもいいし、「ちくま日本文学」でもいいのだが、読み返したい。河上肇の『自叙伝』も快著だ。波瀾万丈であった生涯を語りつくしたもので、むさぼるように読んだ思い出がある。本書で、内田魯庵に触れた所があったが、『貘の舌』も、ウェッジ文庫で読み返そう。
私がまだ読んでいない本で興味深く思ったのは、木村荘八の日記だ。全集の八巻に収録されているらしい。木村荘八は一年中、本の片付けばかりしていたというが、それも面白そうだ。あと、伏見冲敬訳の中国の古い小説『肉蒲団』。
装幀と挿絵が武井武雄だという。内容が内容なので、どのような挿絵を描いたのか、とても興味があります。