……というわけで、登場人物の並び、ストーリーの仕立て両面から言っても、破滅に向かって驀進する刹那的な青春模様を展開させるには、配役は整っている。しかし物語は、遠藤家と雅治の、どこまでもダラダラと沈滞し閉塞した日常を追いかけることに終始する。そこにクライムノベルの要素はほとんどなく、一体いつになったら雅治がこれほどの重傷を負った経緯の説明が始まるのか、読者は不安になってくるはずだ。実は本書は、その経緯の相当部分を直接書いておらず、読者が自分で読み解かねばならない。その「落着」の他にも、『ライフ・ゴーズ・オン』では、作品内の様々な要素が読者の解釈に委ねられている。
その最たるものが兄弟の出生の秘密だ。雅治は三人きょうだいの真ん中で、上には兄の雅義、下には妹の由佳がいる。本書の中では、由佳だけは父が違うのではないか、いやひょっとすると違うのは雅治か、という疑問が折々に挟まれては棚上げされて行く。三人を生んだ母は物語の途中で急性肺炎で死ぬのだが、その死を知らないのであろう、母の知り合いを名乗る人物から手紙が届く。直接書かれてはいないが、この手紙の内容はどうやら母のナイフ好きを知る人物が、「(自分に)預けたナイフを研ぎに来ないか」と誘うものなので、雅治はこの差出人が母について相当詳しい人物だと見る。そしてその人物に訊けば、自分たちの出生の秘密も解き明かせるのではと期待し、東京からはるばる岩手に向けて出発するのだ。
しかし結局、頻繁に顔を出していた「異父兄妹」というモチーフは最終的解決を図られないまま終わる。この他、雅治の父や兄への感情、桃子への想いや関係性、そしてミスター・ソンブレロとの幻想的で象徴的なやり取りが意図するところは、全てはっきり書かれないまま終わってしまう。雅治の生死や、雅治が何故死にかけているのかという「ストーリーの落着」すらもがそこに含まれており、漫然と読んでいると、何がどうなったのかよくわからないという事態すら起きるだろう。
もっとも、ある程度以上しっかり読めば、それらを解釈することは容易である。たとえば、桃子に再会して雅治は彼女に生涯で初めてリアルな恋心を抱き、妹の由佳、恋人の茜への思い入れが急激に褪せたと解釈することが可能だ。そして由佳を「異父妹」あるいは自身を「異父兄」と想像することが、由佳への想いを正当化するためのものであるとすれ、岩手行きの曖昧な成果もまた、自分の心をはっきり桃子へと向けるための踏ん切りになったに違いないのである。
冒頭で、ミスター・ソンブレロは雅治の人生について「これで二十三回目だ」と言う。ミスター・ソンブレロは、雅治の死にゆく脳が見た幻に過ぎないと私は思う。ゆえに、雅治の人生が本当に二十三回目であるはずはない。では「二十三回目」の意味は何なのだろうか? それは後半、苛められて高校生活もうまく行かず、占いやら怪しげな疑似科学に逃避している桃子が嵌っている、「23エニグマ」という、二十三を啓示的な数とみなす考え方から来ている。雅治自身はその考えに染まらないが、他ならぬ桃子が拘ったのだから強く印象に残ったはずだ。さらに(曖昧に書くが)雅治の重体には恐らく桃子が深く関与している。だから今わの際の幻影に二十三が出て来たのであろう。
さらに、『ライフ・ゴーズ・オン』という題名も、極めて示唆的である。その意味は、チャプター16の冒頭で、ミスター・ソンブレロのもって回った科白――端的な発言になっていないこと自体が、主人公雅治の意識と思考の混濁を表しているようでもの悲しい――により表現されているが、これを肯定的に捉えるか、否定的もしくは皮肉に捉えるかは、解釈が難しいところである。
「読者の解釈に委ねる」と言っても、意味不明で支離滅裂なわけではなく、以上ように、読み込めば納得できる作りにはなっている。これが正解というものではないかも知れないが、「ここら辺が正解」というものは多分ある。本書はそういう小説である。
本書のジャンル分けは容易ではない。単純なノワールではなく、犯罪小説でもない。青春小説かつ成長小説ではあるのだろうが、ストーリー展開を考えると、本書を「少年が未来に向けて駆ける話ですよ」などと言っても嘘になるだけだろう。
ただしこれだけは言える。わずか280ページの中に、様々なものが詰め込まれており、噛み締めるほどに味わいと重さが増す。読解に手間をかける価値はある作品として、じっくり読むことをおすすめしたい。