『掏摸』は、中村文則のこれまでの作品と同じく、世界の理不尽極まりない「悪意」に包囲された物語である。そしてこれも過去の中村作品と共通していることだが、「僕」にはどうやら、幸福とは言い難い過去がある。その「過去」が「子供」の現在と呼応していることは明らかであり、それが無慈悲な『掏摸』という作品にあってかすかな灯りになっていることも確かで、もしかしたらそこに「甘さ」を見る批評も可能かもしれない。しかし、木崎によって強いられた状況はまったく微塵も「甘さ」の余地が無いもので、言うまでもなく木崎は、「僕」が仕事を引き受け、首尾よく成功させれば、それで晴れて「僕」も「子供」も解放してくれるような、そんな男では無い。
【この人生において最も正しい生き方は、苦痛と喜びを使い分けることだ。全ては、この世界から与えられる刺激に過ぎない。そしてこの刺激は、自分の中で上手くブレンドすることで、全く異なる使い方ができるようになる。お前がもし悪に染まりたいなら、善を絶対に忘れないことだ。悶え苦しむ女を見ながら、笑うのではつまらない。悶え苦しむ女を見ながら、気の毒に思い、可哀そうに思い、彼女の苦しみや彼女を育てた親などにまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、もっと苦痛を与えるんだ。たまらないぞ、その時の瞬間は! 世界の全てを味わえ。】
これが木崎である。木崎もまた、「世界」と言う。まったくもって、中村文則の構築する小説には、「世界」という言葉がよく似合う。というか、そこには「世界」しかない。むろん、我々が生きて在ることの全体をそっくり「世界」という言葉で指示してしまえば、「世界」に外側は無いということになるが、それはまあ理屈であって、共同体というのは「世界」であると同時に「世間」であったりもする。「子供」が万引きを敢行するスーパーなど、本来ならまさしく「世間」の舞台なのだが、『掏摸』においてはむろん、スーパーは「世界」そのものである。
中村文則を読むことは、ドストエフスキーやカフカを読むことと同じだということの意味は、「世界」を読むということにおいてである。
ここで少し、漢字表記について気になることを書いておく。パーソナルコンピュータおよびワードプロセッサ機能がすっかり「世間」に定着した社会では、「漢字を書く」ことは単に変換一覧の中から適切な漢字を選ぶだけの行為になっており、そのことで「漢字がすっかり書けなくなった」「忘れちゃった」というのはよく聞く話。かく言う筆者も、恥ずかしいことに例外ではない。「掏摸」をすんなり「スリ」と読める人が、いったいどれだけいることだろうか。
「掏る(する)」はコンピュータで出てくるが、「摸」は出てこない。「摸」とはすなわち「模」であり、「手さぐりする」「手本を真似る」という意味だ。今日の「世間」で「摸」を使用する機会はほとんどなく、あるとすれば麻雀の「自摸(ツモ)」くらいだが、これとて普通は「ツモ」とカタカナで書くだろう。つまり「掏摸」とは、「手さぐりで盗み取る」という、無駄を削ぎ落とした短時間のアクションを、「ス」「リ」という乾いた2つの音で表記する、まったく非「世間」的な、「世界」標準の言語なのである。
「掏摸」という、見慣れない漢字二文字の喚起する力はとても強い。で、面白いのは、本文中ではすべてカタカナの「スリ」表記で通していること。そしてこれは小説作品としては例外的なのではないかと思うが(しかし中村作品にあってはいつものことなのだが)、「密かに」「馴染む」「微かに」「白昼夢」「痺れ」「滲んだ」など、もしかすると読み方がわからない可能性がある漢字(中学生レベルだろうか?)には、初出時にすべてひらがなでルビが振ってある。
ここから読み取れることは2つ。「世界」の中に現れる行為や気配、所作、現象などを、しっかり漢字を使って表記したい、ということ。漢字とは表意文字である、という当たり前の事実が、あらためて思い起こされる。もう1つは、その漢字をしっかり読む=意味を理解する、ということに向かって、読者を誘っているということだ。
先の映画化のくだりと同様、まったくの邪推だが、中村文則という小説家は、たぶん、読者の間口を広く取りたい書き手なのではないか。その硬質な小説世界へ、学歴や教育水準に左右されずに、手ぶらで読者に入ってきてもらいたい。そういう書き手なのではないか。
最後に、「塔」について書こう。
【小さい頃、いつも遠くに、塔があった。
長屋や低いアパートが並ぶ汚れた路地から、見上げると、その塔はいつもぼんやりと見えた。霧に覆われ、輪郭が曖昧な、古い白昼夢のような塔だった。どこかの外国のもののように、厳粛で、先端が見えないほど高く、どのように歩いても決して辿り着けないと思えるほど、その塔は遠く、美しかった。】
『掏摸』では、何度かこの「塔」についての記述が反復される。「あとがき」にまで「塔」は現れる。と、いうことはつまり、「僕」はいくぶんかは作者の分身であり、実際、そのように「あとがき」で作者自身も書いているが、はたして「塔」とはなんだろうか?
実在のものなのか、明らかな幻視によるものなのか、それも判然としない「塔」。しかしこの「塔」も、「世界」という言葉と同じように、カフカの『城』の読者でもあるこの小説家に実に似つかわしい。いささか安直に類推すれば、『掏摸』とはどこまでも「悪意」のほうに、社会の暗部のほうに深く下降する物語であり、人間の存在が底を打つ瞬間を模索するような小説である。そうした「下降」の対極にある「高さ」こそ「塔」であり、先の引用にもあるようにそれは「いつも遠くに」あることで「僕」を生かしているのかもしれない。
中村文則は「世界」にしか興味が無い。そして「塔」とは何かを考えることが、おそらく、『掏摸』を読むということなのである。