中村文則を読むことは、ドストエフスキーやカフカを読むのと同じことである。同時に、アキ・カウリスマキが撮った『罪と罰』を観るのと同じことであり、『掏摸』を読むことは、ロベール・ブレッソンの『スリ』を観ることと同じである。
なーんて書いてみたくなるのは、中村文則の小説はいつも、「世界」を相手にしているからである。「世界」というのを例えばワールドワイドだとか、世界文学だとかいう意味に取ってもらってもいいし、ちっとも「世間」的な事柄が描かれていないという意味での「世界」というふうに考えてもらうとなお良いかと思う。この作家がいつも書いているのは、「世界」の中にある圧倒的な「悪意」と、「悪意」に捕捉されている人間の姿、ただただそればかりである。優れた作家は、きまって同じ主題を追い続けるようにできているのだと思う。
中村文則の小説にあっては、ページをめくるとすぐに「悪意」に読者は包囲される。むき出しの世界はとても暗くて、そこには「悪意」が厳然と待っている。『掏摸』の冒頭はこれまでの中村作品の中では極めて穏やかだが、ここに書いてしまうと皆さん白けると思うので、代わりに文庫で簡単に入手できる『土の中の子供』の冒頭を引いてみよう。
【あらゆる方向からのバイクの光で、逃げ道がないことを知った。無数のバイクはただエンジンを鳴らし続け、もう何もすることのできない私をいつまでも観察し続けていた。だが、この状態はあと数秒も続かないだろう。バイクからは男達が降り、その手に持った鉄パイプで、私を気が済むまで打つのだろうから。】
見事な書き出しである。暗い夜をバイクの光が照らすように、ページをめくると、まるで懐中電灯のスイッチを入れた時のように、この場面が言葉で立ち現れる。ハードボイルド小説の起点のようにも読めるが、「観察」の二文字が、完璧に純文学。
そして最新作の『掏摸』は、さらにどす黒い存在感を増す「悪意」ばかりでなく、どこか洗練ともいうべき優美さをまとった作品であるように読める。そうした「洗練」は、人によってはエンタメ性に思えるだろうし、人によっては、より映像性のほうに寄った作品のように思えるかもしれない。何の根拠も無いが勘で言うと、おそらく『掏摸』は、すでに映画化のオファーが来ているのではないかと思う(繰り返すが単なる「勘」である。現在の日本映画界はそれほど「原作」に飢えている=オリジナル脚本で作る気が無い、のであり、しかしそうした状況を抜きにしても、運動神経の良い映画作家であれば、『掏摸』を映画にしたくなるはずである。しかしそれは同時に、ブレッソンの『スリ』を念頭に置かなければならないという絶望的な挑戦になると思う)。
【背中で右側の人間達の視界を防ぎ、新聞を折りながら左手に持ちかえゆっくり下げ、陰をつくり、右手の人差し指と中指を、彼のポケットに入れる。彼のコートの袖のボタンに蛍光灯の光が微かに反射し、視界の隅にすべるように流れた。息をゆっくり吸い、そのまま呼吸を止めた。財布の端を挟み、抜き取る。指先から肩へ震えが伝い、暖かな温度が、少しずつ身体に広がるのを感じる。周囲のあらゆる人間、その無数に交差する視線が、この部分だけは空白に、向けられていないとわかるように思う。】
ここにYouTubeの画像を貼れたらいいのに、と思う。ブレッソンの『スリ』の動画を。できれば、YouTubeにアクセスしてもらって、「PICKPOCKET - 1959 - Robert Bresson」というタイトルの、4分半ほどの動画を実際にご覧いただけるとありがたい。『掏摸』は巻末に「参考文献」として3冊の本とともに『スリ』をクレジットしているが、こういう場面を読むと、『掏摸』と『スリ』はやはり同じだと判断できるのである。「同じ」ということの意味は、『掏摸』が『スリ』を真似たとか引用したとかいうことではなく――いや、手続きとしては真似でも参考でも引用でもなんでもいいのだが――つまり、所有者から気付かれることなくその財布や金品を抜き取る、という行為の全体が、過不足なくここに書き込まれている、ということである。それは「ディテール」というのとも違う。行為自体がが「世界」の全体なのであり、そこでの指の震えが、読書の震えでもあるような、そんな出来事がそこにはある。
『掏摸』は、天才的なスリの能力を持った主人公の「僕」に対して、決定的な作用を及ぼす2人の人物を配している。1人は、かつて一度だけ仕事を共にしたことがあり、「僕」の高いスリ能力を認めるがゆえにしばらく「僕」を泳がせ、今また眼前に現れて、仕事を強要する男・木崎である。木崎は圧倒的な「悪」がたまたま人の姿形をとっただけ、といった人物で、木崎から依頼された仕事に失敗すれば「僕」は死ぬ。もし仕事を断れば、その時は、ある「子供」が死ぬ。
その「子供」が、決定的な作用を及ぼすもう1人の人物である。ただ「子供」と呼ばれるだけで、名前は無い。「僕」は「子供」に名前を聞くような男ではなく、名前を聞くような関係ではない、ということになるだろうか。「彼」と書かれることもあるので男の子だろうと推測されるものの、性別についての明確な記述も無い。「子供」は「三十代中頃の、目の細いやつれた女」を母親に持ち、スーパーで万引きの手伝いをさせられているが、母親にぶたれながらも、けなげにも期待に応えようとする。そんなぶざまな親子の姿を、「僕」が見逃すはずはない。いつしか「僕」は、自らの積極的な意志によってではなく、親子から(特に「子供」から)頼られる存在になり、そのことで「子供」が「僕」のウィークポイントになる。