そういえば、中学生の頃からの宝塚ファンだという友人がいて、世間話をすればかなりの確率で宝塚の話題になりますが、「どこ組の○○さんがステキ」といったときめきトークを聞かされることは滅多になく、たいていは実力者の出世を阻む不可解な人事を憂い、脚本演出の理不尽さを憂い、増えすぎた公演数を憂い、歌える娘役の不在を憂い、贔屓スターの退団を憂い、その他諸々歌劇団に対する悲憤慷慨を述べた後に、「そろそろ宝塚もおしまいかも……」としめくくる、というパターンです。最初に「そろそろ宝塚もおしまい」と聞いてから10数年経つような気もしますが、宝塚歌劇団終末の日も、彼女がファンをやめる日も、いまだにやってこないようです。これもまた、本書でいうところの「死と再生のプロセス」、あるいは宝塚版『エリザベート』の副題を借りていうならば、「愛と死の輪舞(ロンド)」の一つの形でしょうか。
「ヅカファンはみんな自分が脚本家で演出家だから!!」とは、その友人の名言……、のような気もします。「宝塚歌劇はファンに夢を見させる」とは、よく言われることですが、その「夢」が、たんに「キラキラと華やかな舞台に立つ素敵な男役スター」を仰ぎ見るだけの、受身の消費者としての「夢」ではないことは、本書でもくり返し語られることでもあり、身近の宝塚ファンを見ていてもだいたい想像はつきます。
宝塚ファンの見る夢とは、贔屓のスターにはこんな脚本で、こんな役を振って、こんな衣装を着せて、ダンスはこんな振付で……、と、脚本演出衣装振付に携わるクリエイターとしての夢でもあり、さらには企画経営人事万端を取り仕切る会社経営者としての夢でもあるようです。
そして、宝塚とは、時にその壮大な夢を現実にしてくれる場でもあります。以前、共編著『淡島千景 女優というプリズム』の際のインタビューで、宝塚月組の娘役スターだった淡島千景さんが、宝塚を退団して映画界入りする際に世話役を務めた故垣内田鶴さんは、それまではショービジネスとは関わりのない一宝塚歌劇ファンであったにもかかわらず、以後は淡島さんの敏腕マネージャーとして、映画会社の重役たちと互角に渡りあい、大女優・淡島千景のキャリアを築くために多大な貢献を果たしてきた―というお話を伺ったことがあります。贔屓のスターに寄せる情熱は、「ファン」と、「プロデューサー=マネージャー」との間の、なかなか越えられないはずの壁すら突破することができる。月組に淡島千景がいた時代から50年以上が過ぎてもなお、宝塚はそうした夢を見させてくれる世界であり続けている、のかもしれません。
というわけで、やっぱり一度はこの世界に本格的に踏みこんでみるべきかもしれん、と、本書の読了後、とりあえず『宝塚おとめ』最新版を入手して、在籍中の生徒さんの芸名愛称を一通り把握してから、久しぶりの東京宝塚大劇場公演に推参してみることにしました。二階席の端っこから見降ろした舞台上では、予想を遙かに上回るカオスが爆発していて、口ぽかん状態の3時間を過ごすこととなったのですが、それはまた別の話。
現代宝塚についてより学問的にアプローチした論文集としては、宝塚関連書籍を数多く出している青弓社刊『宝塚という装置』が、総じて文章は硬めながらも地味に良書です。巻頭論文の東園子<「宝塚」というメディアの構造>では、「役名」「芸名」「愛称」「本名」という、虚構と現実が複雑に入り混じった四層構造からなる、タカラジェンヌの身体と人格のありようについて、マンガの「キャラ/キャラクター」構造(伊藤剛(『テヅカ・イズ・デッド』NTT出版)と関連付けながら、丁寧に分析されています。
「男役スターが《女装》する」という屈折した観客サービスについても言及があり、「達者な芸」とも「よくできた脚本・演出」とも「綺麗な衣装」とも違う、宝塚歌劇の舞台にしかない言語化しがたい厄介な魅惑が、説得的に論じられています。
『淡島 女優というプリズム』については書評を収めていますので、どうぞお楽しみください。
『淡島千景 女優というプリズム』レビュワー/北條一浩 書評を読む