「書くことがない」作家は、それでは何を書くのか。「彼」の答えは「気分」である。
【しかし、実際に何かを作品として書こうとすれば、眼は必然的に自分自身に向かざるをえないし、それを手がかりにしなければ何も摑めない。そこで彼が選び取ったのが、自分の中に生まれたり消えたりしていくさまざまな気分に自己を投影させる、という書き方だったのだ。それ自体が曖昧で捉え難い気分などというものを手がかりにして小説を書くというのだから、いかにも危なっかしくて頼りない綱渡りに似た営為だった。】
気分。この言葉から一瞬、志賀直哉を思い浮かべてしまう。志賀直哉の短編は、しばしば、主人公は「私」ではなく「気分」なのであると評された。実際、勝目梓が当時敬愛していた作家として、内田百閒、永井龍男、井伏鱒二、木山捷平、梅崎春生といった名前が挙げられていて、それらを「工芸品」「出来栄えの見事な小説」と作家は呼んでいる。それらはいわば「小さな文学」であり、中上健次が「初めからもっと大きな文学を目指していた」のとはまさに対照的なのである。
筆者が、勝目梓が繰り返し、「何も無い」と書く時の、自分自身に向けるまなざしに惹かれるのは、この『小説家』という作品を通して、70歳を超えた著者が、どんな半生を送ってきたかを読者として知ってしまったからでもある。実際、その生涯は「何も無い」どころではない。幼い頃の父親との死別。母子家庭の厳しさと貧乏。家族離散。炭鉱夫としての日々。そこで見る死。転々と変わる職業。何人もの女性との交渉。別れ。裏切り。娘たちへのうしろめたさ。父親失格……。
それらを通過して、あるいは渦中にいながら、作家はそこに「何も無い」という。そのことの深さ。その魅力。
とりわけ女性たちとの交渉は、厄介な人間の業にそのまま突き動かされた仕儀であり、そのことをもって情痴小説を書くこともできるのではないかとも思える。だが作家はそれをしない。しないのは、私小説作家然としたそうした態度を潔しとしない、ということではどうやらなくて、自分自身を見つめたり、掘り下げるのがどうにもイヤなのだ、つまり逃避であるらしい。
『小説家』が逆説的な仕方で読者に示しているのは、実はいかに勝目梓という人が、小説を「大きなもの」、いや、巨大なものと見ていたか、ということではないかと思う。それは本来、大小の比喩で語るべきものではないかもしれない。しかし、自分が持っている何物も小説のテーマとして合格することなく、ある年齢を境にキッパリと退路を絶って娯楽小説の書き手として自分を規定しながら、70歳を過ぎて忽然と上梓された初めての自伝的小説には、その90%以上の記述が、「セックス&バイオレンスの作家」に転進する以前の時間について書かれている。これはやはり、只事ではない。もしかするともはやそれは純文学でもエンタメ小説でもなく、ただ「文学」という大きな象の体を這い回る蟻のような存在として、自らの格闘の日々を記録しておきたかった、ということなのかもしれない。
先に無手勝流と書いたけれども、勝目梓が娯楽小説家になるべく選択した「情念」というキイワードは、これは本来なら、あるテーマなりジャンルを選択した後に、結果的にその作家の作風として醸し出されてくるような類のものだ。それを、まだ作家としてスタートする前に念頭に置くということがこの作家の特異なところである。「情念」を書くのは「気分」を書くのと同じくらいとらえどころがない。むろん、そこには「セックス&バイオレンス」というわかりやすい入り口が用意されていて、それで文学が商品として流通するわけだが、この「セックス&バイオレンス」も作家が論理的に導き出したテーマであって、そこがまたユニークである。
『小説家』は、全体として漂流感の強い小説である。漂い、流れる風景や時間の中で魅力的なのは、若い日々の作家の前に現れては消えていく様々な人物の肖像だ。サナトリウムに入院した結核の兄。それを見舞いに行くときだけは際立って生気に溢れている母親。命を落とす坑夫仲間。淡い交渉を持つ娼婦。選炭場で働く女。心中した友人。作家を目指した日々を支えた妻。その妻がいながら新たに交渉を持つ女。さらに別の女。娘……。
60歳を超えて『月山』で芥川賞を受賞、その特異な作風と存在感で一時期、メディアの寵児となった森敦の相貌はとりわけ魅力的で、中上健次のそれを上回る。森敦という伝説的な人物の輪郭が、ごく近しい距離から描かれているという点でも実は『小説家』は貴重である。
小説家。あまりにシンプルであっけないタイトルに込められた自負をどう読むか。『小説家』の文章は水のように淡いが、飲み込むと濃密な感覚が長い時間にわたって残る。
一気に読んでしまう傑作である。