勝目梓の本を、たった1冊しか読んでいない。言うまでもなく、この『小説家』である。人気バイオレンス作家だということはむろん知っていたが、まずなによりそのジャンルについて完全に無知である。だから本来なら書評をする資格が無いということになるのだが、それでスルーしてしまうには『小説家』はあまりに素晴らしい。
と、いうわけで恥ずかしながら、『小説家』のレビューです。
勝目梓は、「セックスとバイオレンスを売りにしたエンタテインメント小説家」というのがマスイメージだろう。当人も『小説家』の中で自らをそう規定している。この国では小説について考える際、1人の作家を小説という広いフィールドの中の、どの辺りのポジションで仕事をしている人かという腑分けをする習慣がある。ゴリゴリの純文学なのか、ミステリなのか、時代小説かSFか、ホラーなのか、歴史小説か、冒険小説か……。
で、勝目梓は、そうしてあらかじめジャンル分けされた固定的な世界に入るのではなく、他の作家との差別化の方法として、「セックスとバイオレンス」を自らの「売り」にすることを決め、そこから娯楽小説の作家としてスタートする。差別化。まるで広告代理店みたいだが、勝目梓が代理店と違うのは、一切のマーケティングをしなかったことである。娯楽小説の世界でどんな作家が人気を博しており、どんな作品を書いているか。勝目梓は、そういうリサーチをまったくしなかった。バカにしていたわけではない。舐めていたわけでもない。「しなかった」理由はさまざまに考えられ、まず、娯楽小説作家を志した時点ですでに40歳になっていたことが挙げられる。長年、純文学を志してきたことも大きいだろう。しかしなにより、勝目梓という人は常にそういう無手勝流の人なのであり、その流儀で渡って来た人ならではの魅力が、『小説家』には溢れている。
【彼はそこで肚を決めて開き直った。いかにも古めかしく思える“情念”というものをキイワードにして娯楽小説を書こうと決めたのだ。それ以外には拠って立つものがないのだから、古めかしさなどはかまっていられなかった。
人間にとって根源的なものであるはずの情念のうねりに照準を合わせれば、そこにはあるがままの愛や怒りや哀しみや欲望が、あらゆる属性を超えて姿を現してくるのではないか。それなら自分にもそれを娯楽小説として書くことができるかもしれない。情念の爆発の中でも、セックスと暴力はもっとも劇的な要素を含んでいるはずだ。そうだとしたら、セックスと暴力をセールスポイントとする娯楽小説を書けばいいではないか――彼はそう考えた。】
「彼」とは作家自身のことである。勝目梓は、「私」ではなく「彼」と書く。「彼」という突き放し方で自身の半生を容赦なく白日の下に晒し、同時に、徒に露悪的な記述に走るのを避ける。その姿勢はクール、というのとも違って、人間の業や運命の哀しみが剥き出しになっている。これは、ピリピリと痛い書物である。
『小説家』は3部構成を取っていて、基本的には編年体で書かれている。幼年時代から青春時代の彷徨を綴った第Ⅰ部。状況に流されながら、「書く」ことに執着し始め、純文学作家たらんと苦闘する第Ⅱ部。そして自分の純文学に見切りを付け、娯楽小説家として再スタートを果たす第Ⅲ部。
ここで『小説家』という小説のいちばんの肝だと思える点を書いてしまうと、それは「何も無い」ということを見つめる「彼」の眼差しにあると思う。「彼」は、小説が書きたくてたまらない男であるにもかかわらず、本当の意味でどうしてもこれでなければという「書きたいこと」が何も無いことに煩悶する。自分の内部には、どうしても表現として外に出力しなければ始末がつかないような、そのようなものは何一つ無いという自覚に、「彼」は繰り返し、執拗に立ち返る。それはあたかも、「これだ!」と言えるものが見つかっては困るとでもいうような、見つかるはずがないとでもいうような執拗さである。見つからないから焦燥があるのに、見つかってしまったらそんなものはインチキだと断罪するような潔癖さ……。
【彼は、中上健次に触発されて、遅ればせながら自分自身というものに眼を向けた。自分の魂のありかとその底のようすを探ろうと心がけた。そこに眼を凝らした。けれどもそこには何もなかった。少なくともわざわざ小説にしなければならないようなものや、それだけの値打ちがあると思えるようなものは、何もなかった。見えてくるのは、妻子を郷里に置き去りにして、東京で他の女と暮らしながら、小説家として身を立てることを夢見つつ、当て所もなくいきあたりばったりに生きている男の、狭い砂地のような魂の様相だけなのだった。】
ここで中上健次の名前が出てくるが、中上と勝目梓は、終刊間際の文芸同人誌『文藝首都』の同人同士という間柄だった。中上健次は周知のとおり、自らの出自や血族、宿命、そして路地などを強固なモチーフとしており、つまり歴然と「書くこと」が、はちきれんばかりにあった小説家だった。そのような人物がすぐ傍らにいて、自分の「何も無さ」が否が応でも際立つということは理解できる。