話題作だ。いや、発売前から話題作だった。一挙掲載された『群像』8月号は完売。帯文までが、「驚愕と衝撃! 圧倒的感動!」と煽る煽る。もっとも、これほどの面白さと、構想、執筆2年という試行錯誤の果てに書き上げた、血を吐くような芥川賞受賞後第一作となったことを考えれば、まだまだお祭り感が足りないくらいだ。
反響を裏付けるかのように、すでにマスメディアには多くのレビューが掲載されている。まだ未読の人も、大阪弁文体を封印して臨んだ初の長編であること、中学生の深刻ないじめが出てくること、ドストエフスキーの『罪と罰』の向こうを張って、人間の善悪を見つめた作品であることなどは、おぼろげに把握しているだろう。
歯、乳と来て、今度は目。やはり肉体から精神を見つめ、数々の思弁が拮抗して哲学していくスタイルは、本書でますます磨きがかかっている。
主人公は14歳の〈僕〉。斜視で、学校ではひどいいじめに遭っている。ある日、〈わたしたちは仲間です〉という手紙をもらい、その送り主であるクラスメイトの〈コジマ〉と文通を通して少しずつ心を通わせ合っていく。
コジマもまた、汚い身なりをし、貧乏だと思われているせいでいじめられている。だがコジマは、汚れたままでいることはいまも生活苦の中にいる父親を忘れないための〈しるし〉であり、それゆえのいじめを受け入れることには意味があるのだと〈僕〉に語る。コジマの中にはいつしか、〈これを耐えたさきにはね、きっといつかこれを耐えなきゃたどりつけなかったような場所やできごとが待っているのよ〉という信仰と呼べるようなものが芽生えていく。
主人公はすでに斜視というスティグマータ=聖なるしるしを持っている。それゆえにコジマは〈わたしは君の目がすき〉〈大事なしるしだもの。その目は、君そのものなんだよ〉と〈僕〉に優しくささやくのだが、それは自分の信念に〈僕〉を取り込もうとするゆえの慈悲にも見える。思想を獲得したコジマに怖れるものはない。神々しいばかりの殉教者ぶりに、〈僕〉は圧倒される。
そのコジマとは対極の信条を説くのが、クラスメイトの百瀬だ。究極のニヒリストである百瀬は、自分が加担しているいじめには何の意味も感じていない、この世界のしくみからいって、すべてはたまたまでしかないのだと言い放つ。〈弱いやつらは本当のことには耐えられないんだよ。苦しみとか悲しみとか、人生なんてものにそもそも意味がないなんてそんなあたりまえのことにも耐えられないんだよ〉と長広舌をふるわれ、〈僕〉は百瀬の揺るぎなさにも打ち負かされてしまうのだ。
それでも〈僕〉は、どちらの理にも共感できない。違和感の正体はわからないままだが、そうして一方的に与えられた倫理や思想や観念では自分は生き抜けないのだと〈僕〉が気づいたとき、息苦しかった世界に初めて風穴が開く。
くじら公園での大きな事件から先は、閉め切られていた明かり取りの窓から少しずつ光が差し込むような印象がある。とりわけ、〈僕〉の義母が発する〈いい方法を考えよう。なんでもあるから。考えればなんだってあるんだから〉という言葉には母性的な体温を感じる。それが、ずっと〈僕〉の目からは距離のあった相手からもたらされた意味は深い。そう、見渡せば、世界は閉じてなんかいない。14歳から遙か遠いいまを生きている大人にも、世界はただそこにあるだけなのだ、自分の目にどう映るかは自分というフィルター次第であり、生きていることがもう希望なのだと語りかける。
全体は暗いトーンで貫かれている物語だが、ところどころに差し挟まれたふたりの触れ合いに何度も胸を衝かれた。コジマの声を、やわらかいのに濃い〈6Bの芯と似ている〉と褒める〈僕〉の手紙。電車の中で隣りに座り、コジマが〈うれぱみん〉とつぶやき、うれぱみんはうれしいときに出るドーパミンのことだよと説明するシーン。コジマのために〈僕〉は自分の髪の束を切らせ、〈またいつでも切ればいいんだから〉〈できないよ〉〈できるよ〉とやりとりした対話。いかにも儚く、それでいてなんてきらきらしているのだろう。
意味深なタイトルは、本書の大きなキーワードだ。〈僕〉はコジマから美術館に誘われ、その手紙には、〈じつは君を連れていきたいところがあって。(略)どこかというと、それはヘヴンです〉と書かれていた。コジマはその美術館に飾られたとある絵画を、“ヘヴン”と名付けていた。〈僕〉にとってはコジマとの時間がヘヴンだったのかも知れないし、〈地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべてだ〉という百瀬の言説こそがヘヴンを言い当てているようにも思える。
ラストで〈僕〉は並木道の真ん中に立ち、両目を閉じた後に再びゆっくりと目を開く。そのとき〈僕〉の目に飛び込んできた光景、その圧倒的な美しさこそ生の祝祭であり、〈僕〉の見た初めてのヘヴンなのだろう。その歓喜は、一人称で語り続ける〈僕〉の視点と考察に乗って、そこまでたどり着いた読者の胸にも無上の思いとして広がる。
黎明の空を思わせる薄いグレーに白く抜いた「ヘヴン」の文字。そっけない表紙の向こうに、深い物語が広がっている。
川上未映子作品については書評を多数収めていますので、ぜひお楽しみください。
『わたくし率 イン 歯ー、または世界』レビュワー/三浦天紗子 書評を読む
『先端で、さすわ さされるわ そらええわ』レビュワー/三浦天紗子 書評を読む
『乳と卵』レビュワー/三浦天紗子 書評を読む