要するに、この本はライブではないのだが、だからこそ鋭敏に感じられる、ほのかなライブ感の残り香に、想像力が楽しくかきたてられるという教育的な側面も持っている。9回にわたる講義は、映画(エイゼンシュテイン、リュミエール兄弟、ディズニー映画、ゴダールなど)を見せたり、ジャズやカントリー・ブルースを聴かせたり、ファッション・ショーの映像を見せながら、時には、映像と曲を意外な組み合わせにシャッフルして驚かせつつ進められるという羨ましいものだ。最大のポイントは、講義の相手が学生であることかもしれない。
「ここにお集まりの皆さんの中には、レコード、つまり、ヴァイナル製のレコード盤というものを手に取ったことがない、見たことがないという方、そもそも、これが何のためにあるものなのかわからない、といった方も、もしかするといらっしゃるかもしれません。これ、この黒い板を、自分でプレイヤーにセットし、自分で再生した経験が一度も無い。という方はどれぐらいいますか?(挙手、聴講生の過半数)う。これは。なるほど。えー。講義を続けます」
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メインテーマは<視覚と聴覚の分断と再統合>で、発達学と結び付けて語られるのが面白い。人間の耳と目は、つながりを失ったまま独自に発達するが、1歳くらいで、視覚と聴覚を言語能力によって関係づけることができるようになる。一方、20世紀初めに登場したサイレント映画とレコードは、つながりを失ったまま独自に発展するが、やがてトーキーによって統合され、ノイズにあふれた映像と音楽はディズニー映画によって完全にシンクロし、ゴダールによって再び破壊される―。
「映画のサイレント時代は20世紀の授乳期であり、トーキー直後のハリウッド映画が持っているデタラメな多幸感=全能感は、言葉を得た直後の幼児の多幸感=全能感に非常に良く似ているのではないか」というアグレッシブな仮説は、「世界を『メロディー』として聴き取っていられるあいだは、われわれの生活は安定しているという訳です」と皮肉的に締めくくられるが、この講義の志向するところは、愚痴や諦念などではもちろんない。
19世紀のオペラハウスにおけるエレガントな社交文化は、子供部屋的なホームシアターにおける受容的なひきこもり文化へと退行するわけだが、20世紀においても社交と儀式性を残し、それによって駆動していった文化が、ファッションにおけるハイ・モード・カルチャーと、アメリカにおけるブラック・ミュージック・カルチャーだった、というあたりの展開が最もエキサイティングだろうか。そこで重視されてきた「ずれ」と「揺らぎ」が具体的に検証され、最終的には<60~70年代の黒人ミュージシャンと「オタク」の相似性>の考察へとつながってゆくのだ。
いずれにしても、この講義録から得られるのは、達成感ではなく宙吊り感である。それは、永遠に求めていたいマッサージのような心地よい高揚感でもある。
ただし、身悶えするほど面白い「後書」によれば、実際の講義は
「テープ起こししてもらったら、話が冗談と脱線だらけで、まったく使えなかった(笑)。中身の半分以上はギャグだったという」(大谷)
「この本を読むと、あ、いい講義だな、と思う人もいるかもしれないんだけども、実際にこの本の調子でしゃべったら多分寝ちゃうよね」(菊地)
という軽さなのだから、ほんと、おしゃれで癪にさわる人たちだなあと思う。