「いまではまったく信じがたい話だが、私たちはついこのあいだまで花は花屋で、肉は肉屋で、服は仕立屋で買う世界に住んでいた。彼の家も仕立屋だった。あるとき、彼は機関車を見た」
今度は、自営業を営む実家をベースにした話である。少年時代から始まるこの小説では、楽観主義と無防備度合いがさらに加速している。なんといっても、冒頭に機関車が登場するのだから、これはリュミエール兄弟による世界初の映画『列車の到着』と芥川龍之介の『トロッコ』の豪華二重奏ではないか。キモは「馬鹿げた思いつきであればあるほど、自分はそれに従わねばならぬように思えた」という記述で、磯崎憲一郎の小説の<ドラマチックな瞬間>の秘密は、こんな素直な習慣にあることがわかる。
母親に定められた人生と、麻薬のように抜け出すことが困難な自然。そんな環境を経て大人になった彼はやがて気付く。「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」。だが、これは自嘲ではなく達成感であり、幼い子供との生活も、後ろめたいまでに幸福なのだという。それにしても、見知らぬ女を見た瞬間「俺は、誰のものでもある」と思うなんて、男ならではの発想だよなと思う。
「自分の妻がいまの妻であって、あの女ではないことがどうにも不思議に思われたのだ。あの向かい側の部屋に暮らし、毎朝あの部屋から勤めに出て、夕飯はあの女と、あの女の娘か息子と一緒のテーブルで食べる生活であったとしても何ら不都合はない、問題なく受け入れられるような気がした」
自営業の両親と、サラリーマンの彼。人はどんな意外な人生を送ったり、親の期待を無視したりしたつもりでいても、母親や幼いころに出会った自然の呪縛から逃れることはできないのだろう。その幻想のようなイメージが、現実の娘に集約するカメラワークがまぶしい。子供を持った男には、きっと「戻ってきた」という安堵感があるのだろう。男の人生って、ずいぶん回り道なのかもしれない。
「彼も、妻も、結婚したときには三十歳を過ぎていた。一年まえに付き合い始めた時点ですでにふたりには、上目遣いになるとできる額のしわと生え際の白髪が目立ち、疲れたような、あきらめたような表情が見られたが、それはそれぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に破れたあとで、こんな歳から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない、という理由からでもあった」
結婚生活の話だが、なんて希望のない書き出しだろう。妻はいつも不機嫌で、彼はそれを理解できない。別れようと思ってももう遅い。彼の母と妻は恐ろしく仲がいいのである。「長く慣れ親しんだ母という時間と、始まったばかりの、まだおっかなびっくりの妻という時間の融合」は包囲を強める。「要するに彼は、自ら外堀を埋めて退路を断つような、自由を放棄するような選択ばかりを繰り返していたのだ」。
不倫に足をすくわれた彼は、いよいよ離婚を決意し、母親に会いに行く。経験しているはずのない記憶までが次々によみがえる実家の庭を見ながら、こう思うのだ。「彼が生きていくことはおそらく、生み出される実在しない記憶をそのまま受け入れることに他ならなかったのだ」。結局、離婚はしないのだが、彼を救ったのは「子供の強引な支配力」だった。これまでの作品に見られた、母親、自然、束縛、楽観主義の集大成である。
しかし、彼は不倫を繰り返す。ある日、唐突に家族を連れて遊園地に行くものの、次に妻と話したのは11年後であるというシュールな展開。このとき彼が導き出す結論に注目したい。「恐らく妻は、俺と結婚する以前から結婚後に起きるすべてを知っていた、妻の不機嫌とは、予め仕組まれた復讐なのだ。妻は俺に復讐するために結婚した」。浮気も妻のせいといわんばかりの極論だが、このことに気付くことで、彼は解放され身軽になったような気分さえし、なんと浮気はエスカレート。その後も彼の人生は、シュールな場面転換と啓示の連続だ。冬の朝の通勤電車の中で、運命的な祝福の風景に出会ってしまった彼は、妻と娘に向かって叫ぶのだ。「決めたぞ!家を建てるぞ!」
男が一生のうちに家族に与えることができるビッグイベントは、遊園地に連れていくことと、家を建てることくらいなのかもしれない。しかし、そういうある種の身勝手な気まぐれが、家族にとって記憶に残るモニュメントとなるのだから、男の存在って大きいなと思う。観覧車の割り切れない数、「良い木」が見つからない建築のプロセスなどは、男の理屈っぽさ、融通のきかなさ、本質に迫る強さの象徴として面白い。男女は一緒にいても、もはや別の世界に住んでいるとしかいいようがない。