磯崎憲一郎の『終の住処』が第141回芥川賞を受賞した。2007年『肝心の子供』で文藝賞を受賞、2008年『眼と太陽』が芥川賞候補になり、2009年『世紀の発見』を経ての快挙だ。(註:磯崎の「崎」は本来は「﨑」ですが、一般性を優先して「崎」で表記しています)
1965年千葉県生まれ、三井物産勤務。つまり磯崎憲一郎は、会社勤めのかたわら小説を書き、40歳を過ぎてデビューしたことになる。一体どんな小説なのかと、著作を順に読んでみたが、デビュー作『肝心の子供』で早くも度肝を抜かれた。だって新人賞という言葉から想像される現代小説の枠を突き抜けた、ノーベル賞ものの揺るぎない世界観が繰り広げられていたのだから。何これ~!
というわけで、単行本化されている4作品(いずれも中編)について、順番に書いてみたいと思う。『世紀の発見』には『絵画』という短編が、『終の住処』には『ペナント』という短編が収録されているが、この2編の魅力も強力だ。絵のような風景の中にあらゆる生命が蠢き、視点がゆるやかに移動する『絵画』も、シュールな物語が1枚の絵に収斂されてゆく『ペナント』も、ビクトル・エリセの映画のように、穏やかで緻密な情景の中に死と再生のイメージが潜む。短編にしてこの奥深さ! この作家の本の装丁や帯コピーをつくる作業は、さぞかし楽しいだろうなと思う。
「ブッダにはラーフラ、束縛という名前の息子がいたのだが、名付けたのはブッダではなくその父、スッドーダナ王だった。その名を思い付いたとき、スッドーダナ父王は、大いに喜んだのだという」
こんな書き出しから始まるブッダ三代の壮大な物語だが、それにしては短い。あらすじのような印象でありながら、肝心な部分の描写には的確に切り込んでゆく。まるでボルヘスの短編のような潔さだ。ユーモラスな映像的ニュアンスは、ロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』みたいだし、ノーベル賞という言葉が咄嗟に浮かんだのは、パールバックの『大地』やガルシア=マルケスの『百年の孤独』を匂わせるからだ。でも、最も大切なポイントは、この小説が世界文学の系譜に連なりながらも、翻訳調ではないベーシックな日本語で書かれていることだと思う。村上春樹でも多和田葉子でもカズオ・イシグロでもなく、ラテンアメリカ文学の日本語訳でもない、シンプルな読みやすさに感動がある。ゆるぎなく古典的なのに、初めて出会うような鮮度。
人生において重要な場面は、たぶん多くはない。三代の歴史は、このくらいのエピソードで解明できるものなんだなと納得してしまう。とりわけドラマチックなのは、ブッダの婚礼の日の山道の風景や、妻の美しさの本質を知る瞬間、子供が生まれる場面などで、いずれも奇跡のような<価値観の転換>が描かれている。以下は「神話絵巻に描かれた一場面のような光景」の中で、30歳のブッタが我が子を再発見するシーンである。
「生まれてきた我が子を、自分はずっと以前からよく知っていた、これほどの世界の盤石さの証明がほかにあるだろうか。ブッダが一生を費やしても、これ以上の何かを作り出せるはずはなく、彼の人生で成すべき唯一最大の仕事はすでに終わっていることを悟った。まだ彼は幽霊ではなかったが、生の義務感から解放され、限りなく身軽な自分を感じていた。後ろめたいまでの幸福感が広がっていた」
確信的なひらめきが、必ず神話的な風景とともにやってくるのが滑稽で笑える。でもマジなのだ。磯崎憲一郎の小説は、このような啓示のくり返しだ。人は、大事なことを頭でなく身体で受け止めるということだろう。ところで、冒頭の「束縛という名前の息子」の名を思い付いた父王は、なぜ喜んだのか。限られた人生のなかで子供は束縛となるだろうという、どちらかというとネガティブなブッダの言葉を聞いた瞬間、父王の中で「直感が、否定的なものを肯定的に置き換えた」のだ。つまり、この小説のテーマは<束縛とともに生きる喜び>の発見である。
「日本に帰るまえに、どうにかしてアメリカの女と寝ておかなければならない。当時の私はそんなことを考えていた。そんなときに出会ってしまったのがトーリだった」
前作と比べてずいぶん俗っぽい書き出しだ。それに「どうにかしてアメリカの女と寝たい」ではなく、「どうにかしてアメリカの女と寝ておかなければならない」っていうのはちょっと変じゃない? 「寝ておかなければならない」は、過去にタイムスリップした人間が、歴史の改ざんを恐れる場合に考えるようなことだ。つまりこの小説は<予め決定されている未来>を喜びとともに生きる小説といっていい。前作の<価値観の転換>は<現在と過去の反転>に集約され、<束縛とともに生きる喜び>が具体的になる。
<予め決定されている未来>を生きることが、なぜ喜びなのか。この小説には「私」が女にがんじがらめになってゆく様が描かれているが、著者の手にかかれば、ありふれた通俗性は「根拠のない楽観主義」とともにあっけなく聖性につながり、初めて見るのに懐かしい、というような表現が随所に出てくる。「いまこの場所にいる彼らはみな聖書の登場人物めいて見えたが、じっさい彼らが浴びているのは二千年前の人々が浴びたのとまさに同一の太陽から発せられた光に違いなかった」という具合だ。なんて大袈裟な感激屋さんなのだろう。トーリとの結婚を決意するきっかけなんて「黒い腋毛」なんだから。
「髪はブロンドなのに、確かにそれは黒い腋毛だった。そのときに私は、この女と結婚しなくてはならない、と知らされた。誰も知らないこの秘密を知ってしまったからには、おまえはこの女と共に暮らさなければならない、この女こそが定められた相手なのだ。過去のなかのある明確な一点に刻印されていた未来が、雲の切れ間の一筋の月光で照らし出されるように、それは唐突にやって来た」
すごいなー。でも、小説の中では不思議と違和感はない。著者の天性の持ち味だろう。めくるめくような白さと寒さと睡魔と思考の不確かさが繰り広げる最後の幻想的なシーンは、「根拠のない楽観主義」を超えた<無防備のすすめ>である。それは通俗との対比によって際立ち、すべてを浄化する奇跡をもたらす。人は、無防備でいることで、本能的に、聖なる歴史を繰り返すことができるのだろう。