この騙りは、戦術的に二つの意味を持つ。一つ目は、士気の高揚である。自分たちのトップが伝説的な勇者なのであれば兵士たちは奮い立つであろう。ここでポイントとなるのは、アーサーその人を含めて、実態をよく知る者ですら、ミルディンの物語=騙りに魅せられて、自分が実際に「物語」どおりに活躍しているような錯覚に囚われる点であろう。一例として、ミルディンがアーサーその人を前に広間で語った、アーサーと巨人のエピソード(67ページから)を挙げよう。グウィナをはじめその場にいる者は、巨人などいないことや、アーサーが勇敢でも高潔でもないことを知っている。しかし彼らは「物語」に現れるアーサー王にすっかり圧倒され、誇らしい気持ちにするのである。物語の強さを示す、素晴らしいシーンといえよう。
「物語」のもう一つの効果は、他陣営への牽制である。ミルディンが作り、吟遊詩人として各地を練り歩く中で広める「物語」は、アーサーへの期待を高める一種のプロパガンダとして機能し、勢力伸張をスムーズにしているのだ。
しかし「物語」はしょせん虚構に過ぎず、相手によっては効果がない。アーサーが表面上従う姿勢を見せるメールワス王もその一人だ。彼は落ち着いた支配者の風格を漂わせており、ミルディンの語る「物語」を炉端でニコニコと聞く。王は「物語」を楽しんでいるが、全て嘘まやかしであることを承知している。アーサー王が高潔な人物であるなど、王は全く信じていない。そればかりか、それ以外のミルディンの嘘(傍らに控えるグウィナが、少年ではなく少女であることなど)を最初から見破っている。他にも若干名、「物語」に動じない人物がいる。この手法が万人に通用するわけではないのである。
そもそも、現実そのものに対して、物語は無力だ。本書後半で描かれる、アーサー一党の哀しい末路がその証左である。アーサーの妻グウェニファーとその護衛の不倫関係が発覚する前後から、アーサーたちの運命はゆるやかに下降し始める。権力者となったアーサーは、次第に欲望と猜疑に心を蝕まれていく。それを原因とする一味の内訌と色濃く漂い始める破滅の予感を、「物語」は押し止めることができない。同時進行するミルディンの老いと病が相俟って、本書は後半で、物語は現実に決して勝てないことを冷酷に示すのである。
しかし本書は、救いが用意されている。ミルディンに代わって、主人公のグウィナが「物語」を受け継ぎ、まったく別の目的でこれを手繰り始めるのだ。
侍女の視点から、彼女は、グウェニファーの不倫を悲恋の物語として再構成する。これを手始めに、アーサーとその一党の綻び(そして愛する人々との別れ)は、グウィナによってとても美しい「物語」として、詩情豊かに脚色されていく。
現実に敗北したミルディンの「物語」は、(一義的には)アーサーの権力確保のためのもので、目的が世俗的であった。しかしグウィナの「物語」は、ミルディンの「物語」を引き継ぎつつも、本来の目的には背を向けて、死者への慰めと生者の希望という、全く新しい性格を帯びるに及ぶ。アーサーが死に、グウィナ自身の人生が新たに始まるところで『アーサー王ここに眠る』は終わるが、そこに至るまでの過程で「物語」は見事に聖化・浄化されている。特に、終盤で漂う哀しくも清々しい情感は本書の白眉に他ならない。
そしてミルディンが生み、グウィナが方向性を変更・決定づけた「物語」は、後年「アーサー王物語」のベースとなり現代まで受け継がれ、当時の現実の如何にかかわらず我々を魅了している――こう考えれば、物語が現実に勝てたことは自明となろう。もちろん、『アーサー王ここに眠る』は全てフィクションなので、実際には勝敗の判定などできない。しかしそう信じたいではないか。
いずれにせよ、このようなテーマを小説に落とし込むのは相当難しいはずである。それを児童文学の範疇でおこなった作者の才能には、思わず嫉妬してしまいそうだ。
本書に関しては、これまで縷々述べてきた事項以外にも、メタフィクションであること、トランスジェンダー性、ローマ帝国時代の終焉・中世の暗黒時代の始まりという絶妙な時代設定、師ミルディンと弟子グウィナの絆、ボーイ・ミーツ・ガールの要素が先述のトランスジェンダー性のおかげでいくぶん込み入った形で提示されること、そしてメタフィクションには付き物の「信用できない語り手」問題など、意欲的な要素がいっぱい詰まっている。
というわけで、正直まだまだ語りたいこと、語るべきことがある。しかしそろそろ字数が尽きる。だから、最後にダメ押しで推薦の言葉を連ねることにしたい。『アーサー王ここに眠る』は、全ての小説好きに捧げられた、素晴らしい作品です。児童文学だなどと侮らず、ぜひ読んでみてください。後悔はさせません。