●『ノミの愛情』~聡明な女の魔力
「非の打ちどころのない医師」を夫にもつ、元看護師の「私」。独身で看護師を続ける夫の妹、夫の下で働く若い看護師たち、隣家の犬などが重要な役割を果たすこの作品は、向田邦子の小説のようにチャーミングで空恐ろしい。
夫への日頃の不満が爆発するというような、ありふれた展開ではない。誰にも迷惑かけずに正義をまっとうする、お茶目で賢い母親像はこわすぎるが、限りなく魅力的だ。こういう毒を含んだ聡明さ、毒を毒として差し出さない愛らしき健全さが、女という性の魔力なのかもしれない。彼女は幼稚園児の息子に語りかける。「泣かなくていいのよ駿平。この世の中は、めぐる光に満ちているんだから」と。なんて素敵な母親なんだ? 暗い感情を一切なかったことにしてしまう、眩しく正しい、生きる喜びに満ちた小説。
●『ディア・ドクター』~兄弟の絆
前監督作『ゆれる』の兄弟を彷彿とさせつつ、新作の『ディア・ドクター』につながる物語。両方の映画を観たあとで読めば、医師の父に憧れ続けたこの兄は、『ゆれる』で父とともに実家でガソリンスタンドを営む長男を演じ、『ディア・ドクター』では僻地の診療所に薬を卸す営業マンを演じた香川照之にしか思えない。
実家近くで妻子とともに暮らす「ぼく」と、遠くで一人暮らしする「兄」。要領のいい弟が抱く、兄への身勝手な空しさと寂しさ。しかし兄弟の絆は甘いものではない。いったん再会すれば、一瞬で何かが理解できたりするものなのだ。この兄に潜む深みが素晴らしい。弱いようで強い。寂しいようで明るい。弱さは強さなのだし、寂しさは希望でもある。最後のシーンは、ネガティブな空気を一掃し、笑いのようなものに接近する。
●『満月の代弁者』~孤独と鬱陶しさの間で
古い港町で4年間、医師をつとめた男が、新任の医師に業務を引き継ぎ、町を出てゆく。
病院勤務に戻る前に2か月の猶予がある彼は、クルマの中で思う。「あれほど人から求められ、つなぎとめられ、あるいは一挙手一投足に目を光らされたりもした生活に参っていたにも関わらず、こうして霞の中をたった一人で走っていると、自分など今ここで消えて失くなったとしても、もはや誰ひとり気づきもしない存在で、世界は何事もなく回っていくのではないかと思えた」。そんな彼の携帯電話を、思いがけない人物が鳴らす。
これって、フリーで仕事をしている人の思いそのものだ。ひとつの仕事が手離れし、深い孤独を抱えるものの、すぐに別の他人から電話がかかってくる。その電話が嬉しいのだ。恋愛だってそう。ある期間、濃密な時間を他人と共に過ごす繰り返しに過ぎない。どんなに離れても切れることのない<血の絆>とは明らかに違う、無責任で心躍る関係だ。
アルツハイマーのおばあちゃんと、女盛りを犠牲にしながら港町に暮らす孫娘の<血の絆>に対し、他人である彼がついた嘘が、鮮やかによみがえる。