医療現場の綿密な取材から生まれた、現在公開中の映画『ディア・ドクター』。この本には、映画の中では語りきれなかったアナザーストーリーズが収められている。地方と都市の対比の中に、病気やケガや老いの問題を絡めた5つの物語は、同じテーマからスタートしていながら、それぞれがまったく異なる骨太な魅力を備えていることに驚く。
西川美和は映画監督だが、脚本はすべて自作し、おまけに小説まで書き上げてしまう人。前監督作『ゆれる』は数々の映画賞を受賞し、同名の小説は三島賞候補になった。彼女の書く小説は、間違いなく映画と同じくらい素晴らしい。どの映画も、どの小説も、優劣つけ難く素晴らしいとしかいいようがない完成度の高さなのだ。彼女がひとつのテーマの取材から、ゆるぎないストーリーをいくつも生み出してしまえる理由は、シンプルな問いを徹底的に突き詰めているからだと思う。医療という大上段な命題を凌駕する<素朴な疑問>。そこに、パーフェクトに構築された設定、物語、人物造形が肉づけされるのだから、どんな些細な描写にも釘付けになってしまう。
たぶん、彼女が抱く<最初の問い>が、シンプルで素朴な上、ものすごく面白いのだと思う。その謎を解くために、彼女はさまざまな風景を凝視するが、面白すぎる問いに、答えなんか出るわけない。ユニークな問いの設定が、最初から答えを不可能にしているのである。だから観客も読者も、繰り返し作品を凝視してしまうのだろう。凝視すればするほど輪郭はアイマイになり、混迷の度合いを深めていくような気もするが、それこそが私たちの楽しみだ。単純な疑問しか持つことができない世界にはすぐに飽きてしまうが、そうでない世界に飽きることなんてない。
それにしても『きのうの神さま』というのは、なんて皮肉で毒舌なタイトルだろう。昨日までスゴイと思っていたものが、今日はどれほど情けない姿で目の前に現れるのか? ここには、そういう<日々の幻滅>のようなものが、しかし、希望をもって描かれている。どうしようもない因習やサガや倦怠があふれているのに、絶望や諦念は皆無。何かを失うことは別の何かを得ることであるという、そんな普通のことが力強い。<転んでもただでは起きない>を全肯定する、向日性の物語ばかりだ。
●『1983年のほたる』~想像力が導く真実
田んぼに囲まれた村から、市内の中学受験を目指す小学生の女の子。塾通いのバスの運転手に対する思いは、反感、嫌悪感、共感、共犯関係へと変化し、最終的には「それはないよ」という、拍子抜けするような友達感覚へと到達する。
素性も知らない運転手との関係が、想像力によってここまで羽ばたけるのだというシミュレーションは感動的。物事の両極に思いをはせることで、白でも黒でもない答えがその間に無限に見いだせる。想像力の豊潤さのみが、人を遠くへ連れていってくれるのだ。何かを諦めねばならぬほど、世の中は狭くない。嫌いな人だって本当は好きかもしれないし、毒舌だって愛かもしれない。「とにかく何でも新しいことをしようとする奴は、寂しくて、さっそうとしていて、おれはいいと思う」という運転手の言葉が忘れられない。
●『ありの行列』~無責任な視点の強さ
人口500人の離島にやってくる、病院勤務の医者。35年間、この島で診療をおこなってきた医者の代理を勤める彼の3日間は、どこか無責任な小旅行のようだ。日頃のオートメーション的な医療行為とはかけ離れた島でのあれこれは、彼にとっては非日常に過ぎない。ほのかな痛みと甘美さを伴う彼の感慨は、たった数時間のフィルムで<何も失うことなく何かを理解できたような感覚>に浸れてしまう、優雅な観客の感慨に似ている。
彼は、中途半端な善意で島と関わりつつも、鋭利なよそ者の視点で、その感慨を切り取る。自分のさもしい心象風景を切り取るのだ。人は、旅に出ても自分から逃れることはできず、遠くへ行けば行くほど、自分と向き合わざるを得なくなる。どんな新鮮な風景も、自分の心象風景を超えることはないのだろう。