実家が超のつく資産家であった青山二郎、その母が亡くなって金蔓をなくした際、一時期アパート住まいを強いられた。文壇アパートとして名高い「花園アパート」である。東京に住んでいる人ならすぐわかったであろうが、新宿にあったアパートで、中原中也もここに住み、小林秀雄らも入り浸っていた。どんなアパートであったかというと「木造の薄汚いアパートで、見るからに見すぼらしく、入ると便所の臭気が建物中に漂い、セメントの廊下に下駄の音が大きく響く」建物であった。周りのみんなが金のないなかで、ここにおいても相変わらずの高等遊民ぶりを発揮して仲間の無軌道な行状をリードする青山二郎の突出したキャラクターについては本書を読んでいただくとして、この「花園アパート」こそは具体的な様相が文字として残された、「昭和初期から急速に増殖していく低所得者向けのアパート」の典型のひとつであった。こうしたアパートが大量供給され、早くも同時にその言葉、概念が大量消費されていく。アパートという言葉の持つマジックがはやくもその効力を失っていくのだ。
建物としてのアパートに話は戻って――。急増した東京のアパートであるが、1945(昭和20)年、敗戦の年の大空襲により多くは灰燼に帰した。そして1950(昭和25)年の統制撤廃から、木造の賃貸アパートがまた建設されはじめた。1966(昭和41)年、東京都民の四分の一にあたる60.8万世帯がアパートの居住者であり、うち一間のみは77%、一間のうち四畳半が68%。東京へ働きに出てきた若者たちの多くがこういった木造アパートに住んだのは言うまでもない。
1950(昭和25)年には「住宅金融公庫」が設立され、翌年には「公営住宅法」も成立した。1955(昭和30)年には「日本住宅公団」が誕生。やがて公営アパート、団地アパートが姿を現すことになる。1964(昭和39)年刊行、荻原葉子の『木馬館』では団地アパートへの憧れが描かれたが、1970(昭和45)年には早くも有吉佐和子が『夕陽カ丘三号館』おいて、そこから出て行きたい場所として団地を描いた。
昭和30年代、高級アパートが登場。30年代末にははやくも「マンション」という呼称が登場した。やがて40年代にはマンション大衆化時代が到来。その後、何度かの経済の落ち込みを乗り越え、マンション・ブームは何度も繰り返されている。
重松清による『見張り塔からずっと』は平成11年に刊行された。同書に収録された『カラス』では、マンションに住む主婦のなにげない一言が、その家族への陰惨ないじめを引き起こす。集合住宅に棲みついた亡霊のような恐ろしい排他性――。「“見えない”隣人たちに潜在的に孕む性癖であるかもしれない」という近藤さんの指摘は、同じ構造が100も200も横にも縦にも積み重なった集合住宅を眺める際に、私たちが漠然と抱く不安を言い表していると思う。
いまもなお威力を持ち続けている「持ち家神話」が、バブル経済のもと、凄まじい猛威を発揮したのは、記憶に新しいところである。このとき、木造賃貸アパートも瞬く間に駆逐されていった。その消え行く様子は佐藤泰志の作品において象徴的に描かれている。
やがてやってきた「ワンルーム・マンション」の興隆。ここに「コンビニエンス・ストア」と「インターネット」という都市生活者の生活を決定づける装置が加わり、自己完結空間が完成してしまった。笙野頼子、安部和重の作品で描かれているのは、非・共同住宅としての共同住宅に住む人間だ。
アパートという言葉と建物がかつて持っていた自由性はもはや過去のものとなった。近藤さんはこう書いている。
「ワンルームが保証する圧倒的な自由とは、何かに拮抗する自由ではない。いわば自己目的的な自由であり、出口のない閉鎖的な自意識へと収束していく可能性がつねに潜在しているように思える」
潜在が顕在となり現実の事件が発生していることは言うまでもない。
先に超圧縮版と書いたが、本書の充実ぶりはぜひ手に取って確かめてほしい。
寺山修司、森茉莉が生涯、木造アパートに住み、寺山修司としての、森茉莉としての人生を生き切ったことはあまりに有名であるが、このふたりに関する考察なども堪らない読みどころだ。
アパートの初期に翻るが、江戸川乱歩による『屋根裏の散歩者』の舞台である「東栄館」と同じ構造の下宿を、乱歩は生活の安定にために実際に購入していたということも明らかにされている。このアパートの初期形態ともいえる下宿の経営を夫人に任せ、人気作家となったものの通俗小説を乱発してしまったとの自己嫌悪により、乱歩は長期に渡って国内放浪の旅に出た。こうした面白いエピソードにもこと欠かないのが本書の良さであり、刺戟に満ちていながら実に愉しく読める。
およそ二十数年前、東京新宿区、富久町四丁目交差点そばにあったアパート。6畳の和室に、2畳ほどの台所、風呂・トイレ付き。その風呂の浴槽がちょっと変わっていて、タイル貼りの浴槽が洗い場の面の下に埋め込まれているタイプ。だから小さいけれど、ちょっと温泉みたいな感じだった。部屋の名前も変わっている。3階建ての2階だったのだが、普通だったら、たとえば201号室のところが、なぜか「梅の室」。ほかは当然「松の室」や「楓の室」であったわけで、当時にしてもこんなレトロな名前は他で見たことがなかった。ちなみにこれでも鉄筋コンクリート。なぜあんな和情緒的な部屋名だったのだろう。人前で住所を書かなくてはならないときなどは、ちょっと気恥ずかしかった――あっ、これ、自分のことです。