ついこの前の季節の春、新しい場所で新たな暮らしを始めた人も多いであろう。新しい住まいに移った人も多いはずだ。そこで本書『物語としてのアパート』――この「アパート」という言葉が呼び起こす、輝きに満ちた「夢」「希望」といった一方で、そこに住んだ年月の結果としての、なんともいえない苦み。故郷、実家を離れて暮らすとすれば、それだけでパーソナルな物語が紡がれるはずだが、本書は、日本の近・現代文学に登場するアパートをめぐる考察であり、それはそのまま日本の都市生活者の住まいを中心とした意識、都市の社会構造を捉え直す作業でもある。
著者・近藤祐さんは、文学関係者ではなく建築設計事務所を営む「一級建築士」。だからこそアパートの建築件数などの数字的な推移も綿密に調査し、住宅建築に関する文献も十分に駆使しての著書となったのだと断言できる。単なる文学好きではこうはならなかった。実は本書を読んで見田宗介による社会学の名著『まなざしの地獄』(河出書房新社)までも思い起こされたのだ。
とにかく大変な労作。だからというわけではないが無類に面白い。以下、本書で採り上げられるアパート(マンション)登場作品・作家を、書き出してみよう(以下の列挙を見てもらうだけでも、執筆に費やされた膨大な労力、ひいては近藤さんの情熱が垣間見られると思う。複雑さを避けるために作家名のみを記す場合もあるのでご了承ください)。
『夢見る部屋』宇野浩二 / 詩集『氷島』荻原朔太郎 / 『屋根裏の散歩者』江戸川乱歩 / 『ぼく東奇譚』(「ぼく」はさんずいに墨)永井荷風 / 青山二郎 / 小林秀雄 / 中原中也 / 『日本三文オペラ』武田麟太郎 / 『オランダ人形』池谷信三郎 / 『一九三〇年のアパートの挿話』長田恒雄 / 『アパアトの女たちと僕と』龍胆寺雄 / 『如何なる星の下に』高見順 / 『ユーカリA』(戦後『アパートの哲学者』に改題)佐々木邦 / 『きりぎりす』『人間失格』太宰治 / 『白痴』坂口安吾 / 『木馬館』荻原葉子 / 『お守り』山川方夫 / 『円陣を組む女達』『妻隠』古井由吉 / 『書かれない報告書』後藤明生 / 『夕陽カ丘三号館』有吉佐和子 / 『燃えつきた地図』安倍公房 / 歌集『血と麦』寺山修司 / 室生犀星 / 『贅沢貧乏』森茉莉 / 『見えない隣人』鈴木志郎康 / 『カラス』重松清 / 『動く箱』魚住陽子 / 『異人たちの夏』山田太一 / 『家族シネマ』柳美里 / 『消える』川上弘美 / 詩集『<一家>心中』宿澤あぐり / 『美しい夏』『大きなハードルと小さなハードル』佐藤泰志 / 『なにもしてない』笙野頼子 / 『ニッポニアニッポン』阿部和重
ふーっ。これでもちょっと端折りました。
これらに雑誌、専門誌、公式文書も含めたふんだんな文献、さらには落語、映画なども引っ張り出され、加えて東京の有名なアパートに関する解説なども抜かりない。創成期のアパートから現在のワンルームマンションまで、これでもかの大変な徹底ぶりなのだ。
さて、アパートの歴史を簡単に振り返りつつ、上記作品の紹介も含めて、その時代なりにアパートという住居がどのように捉えられていたかについて、超圧縮版で紹介してみます。ちなみに本書の考察対象の場所は東京とその周辺のみ。東京人である近藤さんにとっての「土地の匂いなり手触りを度外視はできない」との考えによる。いいじゃないですか。
アパートが日本に登場するのは、明治の終わりから大正にかけて。明治時代は公共建築に建築界の目が向けられ、大正になって初めて都市中流層の一般住宅を改良しようという流れになったそうだ。1923(大正12)年、関東大震災が発生し、住宅の必要性はますます増大。官主導で建てられたものとしてもっとも有名なのは、「お茶の水文化アパートメント」や、かの「青山アパート」をはじめとする「同潤会」アパート。そして民によるアパートも除々に姿を現す。もっとも初期のアパートは自宅を建て増しした部分をアパートとするとか、旅館の形態との折衷も多かった。
この時代、当時としてはおしゃれな洋式アパートに住んでいたのが荻原朔太郎。低所得者向けアパートの住民代表としては青山二郎が好対照だ。
十二月また来たれり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寝台(べっど)を寄せてさびしく眠れり。
荻原朔太郎の詩集『氷島』中の『乃木坂倶楽部アパートメント』の冒頭である。
わずか一ヶ月半の仮寓ではあったが、荻原朔太郎の独り住まいの侘しさが染みてくるような詩だ。ただしこのアパート、当時の流行に敏感な人たちの住まいではあった。そして興味深いのはこの詩のなかに二点の「創作」があるということだ。同アパートは最先端でありつつも、たとえば「同潤会」アパートのように真に時代を画するような建物ではなかった。洋式といえども実は木造。五階建てではなく実は二階建て、そして「乃木坂倶楽部」が本当の名称である。
「朔太郎は自らの悲痛な経験を、詩という虚構世界に中に昇華させたかったのではないか」と近藤さんは見る。そして「まだ名づけられていない新しい希望のようなものを、アパートという存在と言葉とが孕んでいたと見るべきではないか」と考えるのだ。以上は本書の第一章における論考であるが、以降こういった考察が続いていく。むーん、なんともスリリングです。