まえがきでいきなり著者の内田樹氏は、「政治家のみなさん、財界のみなさん、教育評論家のみなさん」にお願いをする。お、早速、教育改革への提言か? と思いきや、こうくるのだ。
「たまたま書店でこの本を手にとってしまったら、できたら頁をめくらずにそのまま書棚にお戻しください。ほんとうに、ぜひ。」
あれれ……、どういうことなんだろう。
そう宣言するだけあって、この『街場の教育論』には、政治家などが参考にできる教育問題解決に向けての実践的提言はほとんど何も書かれていない。内田氏は、もはや小手先の政策で何をしたって教育問題は解決しない、と考えているからだ。「教育再生」「教育改革」などといってトップ・ダウンの処方箋によって、何かが変わると思っちゃいけないよ、というわけである。でも政治家は、常に教育問題を熱く語るものだ。イギリスのトニー・ブレアは、首相就任時に優先的に実行する3つの政治課題として「それは教育、教育、そして教育だ」と言って喝采を浴びたし、日本の安部さんが「教育再生」を強調したのは記憶に新しい。いや、それはね、と内田さん。
「教育に関しては、どのような政策を採用しても、失政を咎められる可能性がないからです。」「教育は惰性の強い制度」なんですよ。
すなわち、教育に関する新たな政策を打ち立てても効果はすぐには現れないから、政治家はその結果による評価を気にすることなく、いろいろと言って、やってみることができるのだ、と。そして同時に、そのように変化がしづらいものだから、「教育についての議論は過剰に断定的で、非寛容なものになりがちである」ともいう。
ところで、昨今の教育の問題といえば、悪名高き「ゆとり教育」がすぐに槍玉に挙げられるが、私個人としては、「ゆとり教育」の大枠のコンセプト自体は間違ってなかったんじゃないかと思っている。もともと義務教育で必要以上に知識を詰め込むことに意味はないからだ。知識は重要だが、子どものころにどうしても知っておくべきことは、基本的な概念や知識の全体像だ。細かな知識などは大人になってから必要に応じて調べればいいのだ(確かアインシュタインも、調べて分かることを覚える必要はない、というようなことを言っている)。そしてもっとも大切なのは、手元の知識をもとに考える能力のはずだ。日本の教育が決定的に欠いているのは、明らかに、考える力を身につけさせることである。だから、「ゆとり教育」によって学習内容を減らした分、子どもたちが、自ら考え、自らの言葉で表現する訓練をする時間を設けることができれば、日本の教育はいい方向に向かったように思う。
しかし、そんなことは言うはやすし行うは難し、なのかもしれない。実際にそういう授業を行うためには、教師がそのために訓練されている必要があるだろうし、生徒に「考え、表現することが知識を詰め込む以上に重要だ」と納得させるためには、受験制度自体が根本から変わらなければならないからだ。受験が求めるものが結局、知識量と反復練習なのであれば、その現実を目の前にプレッシャーにさらされている子どもたちに「ゆとり」を持てなどというのは、大人のきれいごとでしかないだろう。
受験のシステムが変わるためには、大学が変わらなければならず、それは日本の教育を根本から変える必要があり、多大なエネルギーが要る。確かに大変なことだ。が、「ゆとり教育」はその先鞭をつける可能性を持っていたはずだ。しかし結局、「ゆとり教育」の反動で向かったのは、学力が下がっちゃったからもっと知識を詰め込まないと、という正反対の方向。それが全く残念で仕方がない。
……と、オレオレになりすぎてしまった感があるが、『街場の教育論』を読んでいると、内田氏もきっと、いかに知識をつけるかみたいなことのためにいくら役人が頭をひねらせても、それは日本の教育を改善させることとは全く関係ないことなのだ、と言っている気がしてくる。
「“学び”通じて“学ぶもの”を成熟させるのは、師に教わった知的“コンテンツ”ではありません。」
と内田氏は言う。さらにここから続く言葉が内田氏らしいのかもしれない。つまり「学ぶもの」を成熟させるのは、「“私には師がいる”という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。“学び”とはこのブレークスルーのことです。」
本書で内田氏は、教育の周辺にうじゃうじゃいる余計な存在を次々に取り払い、教育というものの核をなしているものに話を収斂させていく。教育問題に関わるプレーヤーたちの中には、保護者、政府、中教審、文部科学省、受験産業、メディアなど、さまざまなものがあるけれど、それらのすべてを端によけていって、教育という巨大な樹海を掻き分けてその核を目指す。するとそこには「教えるものと学ぶもの」しか残らない。この両者だけは絶対に外せない。そして、教育の最も重要な機能は、この両者の出会いによって、学ぶものが、「“今ここにあるもの”とは違うものに繋がること」なのだ、と内田氏は訴える。つまり教育は、「学ぶもの」にとって「教えるもの」がいかなる存在であるかという両者の関係性に尽きるということなのだろう。では、その関係性には何が求められるのか、といえば、「学ぶもの」を「葛藤」に導くことなのだ、と内田氏はいう。