内田氏自身が小中学校時代に習っていた先生には「どうすればこんな人が教師になれたのだろうと思われるような、かなり問題の多い方々が公立学校の教壇にはたくさんおられた。まったくやる気のない教師もいた」という。「しかし、先生たちがそうであったから、私たちは勉強しなかったかというと、そうではない。私たちは実によく勉強しましたし、そのような先生たちからさまざまな人格的影響を受けました。」
「もしかすると、先生が教えるモチベーションが高いということと、生徒が学ぶことの間にはそれほど単純な相関関係はないのじゃないか。そんなふうに思います。」それだけではない。内田氏は、先生の言うことは首尾一貫していない方がいい、というのだ。具体的にはたとえば、格差社会に対する矛盾を訴え通俗的な出世主義を批判する理想主義的な教師が、目の前にいる子どもに対しては、彼/彼女が「博士や大臣」となり出世主義の頂点に立つことを願うといったこと。
「先生の言うことは論理的には“おかしい”のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。
きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。」
教師は「葛藤させる人」である必要がある。だから、そのための「条件を実定的に規定することはできない」し、これがよい教師だと「一つのタイプに集約できるはずがない」というわけである。
「私は“よい教師”を育てるという基本の考え方そのものが間違っていたのだろうと思います。“よい教師”が“正しい教育法”で教育すれば、子どもたちはどんどん成熟するという考え方が、人間についての理解として浅すぎる。私はそう思います。」
そんな内田氏の言葉を読みながら、私は、別の人が教育以外のことについて言っている内容を思い浮かべた。内田氏の「街場」シリーズの名付け親である大阪岸和田の名物編集者・江弘毅氏がその著書『街場の大阪論』で述べる街のあり方についてである。江氏は、コンビニ的で、代替可能で、マニュアル化された経済合理主義に基づく消費社会に対する違和感、いや嫌悪感をあらわにする。「生活者」を相手にせず、「消費者」だけを対象にしたような、まずビジネスありきの街なんぞ、「街やあらへん!」というわけである(と、中途半端な大阪弁をまねると怒られそうだが……)。代替の効かない個性と癖を持った個々人が、一人ひとり、一つひとつ違った関係性を作り上げる中で形成されていってこそ街である、とする。つまり、そのような、簡単にシステム化できない個の関係性によりできた世界こそ、江氏のいう「街的」なもの、「街場」なのである。
そして、内田氏と江氏の言葉を読み比べるうちに、「街場」的であるべき最たるものが教育なのだ、ということが感じられてくる。つまり、「よい教師」とはこれだ、とマニュアル化してシステマティックに「よい教師」を生産・供給しようとするのは、全く誤った方向なのだろう。教育こそもっとも、代替可能でマニュアル化されたコンビニ的システムによって作られてはならないものなのだ。内田氏が『街場の教育論』で書いていることはたくさんあるけれど、軸となるのはそういうことなのだろうと思う。だからこそ、簡単に本に書いてしまえるような解決策はないわけで、それを前提として読んでくれ、ということを内田氏が本書で度々匂わせている所以である。
それゆえ、がんばってもらわないといけないのは、現場で実際に子どもたちと接する先生方だということになる。とにかく教える側が葛藤しつつ子どもたちと向き合い、その葛藤ぶりを子どもたちに見せていくしかないのだろう。一方、外野が、具体的にああしろ、こうしろ、ということをガタガタ言っても始まらない、いや、状況は悪化するだけなのではないか。「“政治家や文科省やメディアは、お願いだから教育のことは現場に任せて、放っておいてほしい”というのが本書が申し述べるほとんど唯一の実践的提言です。」じゃ、この本も外野の一つ? と問われたら、内田氏は迷わず、はい、そうです、あはは、などと答えそうな気もする。
そのスタンスには、自らも教壇に立つ立場である内田氏の、現場に対する根底のところでの信頼と期待が滲み出ているようにも思う。是非、現場の先生方に読んでもらいたい。いや、先生方だけでなく「この本を買わないで」と内田氏にお願いされた方々にも、やはり読んでもらいたい本である。