男の体には、生まれもって「一筋の縫い跡」がある。さて、その場所……多くの男性はすぐにピンとくるかもしれないが、著者・福岡伸一は丁寧に描写する。
「睾丸を含む陰嚢を持ち上げてみると、肛門から上に向かって一筋の縫い跡がある。それは陰嚢の袋の真ん中を通過してペニスの付け根に帆を張り、ペニスの裏側までまっすぐに続いている。」
そう、アレ、あの“すじ”である。
「男の子は早いうちからこのすじの存在に気づいている。知ってはいるけれど、なぜこんな線がこんなところについているのか、そのことについて、思いをめぐらせた少年はどれくらいいるだろうか。」
私はこの本を読むまで、一瞬たりとも「思いをめぐらせた」ことなどなかった。まさかこの“すじ”が、男という存在の意味を知る重要なカギだなどとは全く考えてもみなかった。
最近、「男はいつかいなくなる」という言葉をよく耳にする気がする。先日NHKのドキュメンタリー番組でも、「男は数百万年以内に消滅する」という話があった。とくに人間の男の精子の劣化は激しく、私の記憶が正しければ、確かフィンランドでは男性の20%は精子の数が子どもを作るのに不十分であり、ボーダーラインにいる人も合わせるとなんと40%もの男性の精子が生殖機能に不安を残すレベルにあるという。その背景には、一夫一婦制など人間の文化的な要因も絡んでいるが、そのような人間独自の問題を抜きにしても、もともとオスは消滅する運命にあるようなのだ。
というのも、生物にとってオスという存在は、あくまでもオプション的なものでしかないという。オスとメスが揃わないと子孫を残せないというのは、決して生物にとってのデフォルト(基本仕様)ではないのだ。福岡伸一はこの『できそこないの男たち』で、どのようにそんな、オプションで、「できそこない」の男たちが生まれるに至ったのかを教えてくれる。
「地球が誕生したのが46億年前。そこから最初の生命が発生するまでにおよそ10億年が経過した。そして生命が現れてからさらに10億年、この間、生物の性は単一で、すべてがメスだった。
メスたちは、オスの手を全く借りることなく、子どもを作ることができた。母は自分にそっくりの美しい娘を産み、やがてその娘は成長すると女の子を産む。生命は上から下へまっすぐに伸びる縦糸のごとく、女性だけによって紡がれていた。」
生物のデフォルトはメスなのだ。そしていまもそのように生きる生物の例として、福岡はアリマキという小さな虫の生態を紹介する。アリマキは、ほんの数ミリのティアドロップ状の形をした極小の生き物である。
「メスのアリマキは誰の助けも借りずに子どもを産む。子どもはすべてメスであり、やがて成長し、また誰の助けも借りずに娘を産む。こうしてアリマキはメスだけで世代を紡ぐ。しかも彼女たちは卵でではなく、子どもを子どもとして産む。哺乳類と同じように子どもは母の胎内で大きくなる。ただし哺乳類と違って交尾と受精を必要としない。母が持つ卵母細胞から子どもは自発的・自動的に作られる。母の胎内から出た娘は、その時点でもうすでにティアドロップ形の身体に細い手脚を持つ、小さいながら立派なアリマキである。しかも彼女たちの胎内にはすでに子どもがいる。アリマキたちは、ロシアのマトリョーシカのような「入れ子」になっているのだ。母の胎内に娘が育つ。そして娘は、まだ産み落とされる前に、すでにその胎内に次の娘を宿している。その娘の中にもまた次の萌芽が……。」
このマトリョーシカ的再生産方法の効率のよさは明らかである。生物にとって、子孫を残すことのみが最重要な使命であるとすれば、このマトリョーシカ方式を採用するのが最もよいだろう。ポンポン子どもが生まれる。子孫を残すためにパートナーを探して気を引く必要もなく、ウジウジと恋愛で悩む必要もないのだ。