が、じつは、アリマキにもオスがいる。しかし彼らは、1年に1度だけ現れるという特殊な存在である。現れる時期は、厳しい冬の訪れが近づくとき。
「秋も深まったある日、アリマキは、これまでとは違うやり方で子どもを作ることにする。あるスイッチを入れて、自分たちのプログラムの基本仕様に分岐路を作る。分岐路から基本仕様を外れて特別なカスタマイズ経路をたどったもの、ここに初めてオスのアリマキが産み出される。」
そして冬の間のみ、オスとメスが交尾することによって新たな子孫を産むのだという。しかしそこで生まれてくるのは全てメスであり、春にはまたオスは姿を消す。何のためにそんな複雑なシステムになっているのか。福岡は言う。これは厳しい冬を乗り越えるための多様性を獲得するための方法なのだ、と。すなわち、メスが自分自身で再生産を繰り返すだけだと遺伝子は変化せず、多様性は生み出されない。が、あるメスから生まれたオスが、他のメスと交尾すれば、新たな遺伝子が生み出されることになる。そうして、種の中に多様性が生まれ、気候変動など大きな環境の変化があったとしても、種が絶滅することがないようにしているのだ。
「メスは太くて強い縦糸であり、オスは、そのメスの系譜を時々橋渡しする、細い横糸の役割を果たしているに過ぎない。」
簡単にいえば、結局、
「ママの遺伝子を、誰か他の娘のところへ運ぶ<使い走り>。現在、すべての男が行っていることはこういうことなのである。」
福岡は、そのような男たちの悲しいサガを、文学作品のように美しく豊かな表現と、軽やかな文体で示してくれる。また、そんな男たちの「本性」が明らかになるまでに研究者たちの間で繰り広げられた情熱的で過酷な競争についても多大なページ数が割かれる。緊迫感のある研究者たちの生々しい人間ドラマと微細な研究手段の描写は、オスという存在の本質が徐々に暴き出される過程を、一篇の上質なノンフィクションとして読者に提示してくれるのだ。私たちはその物語を通じて、男のなんたるかを知ることになる。
さて、冒頭の“すじ”である。なぜあの場所にあんな“すじ”があるのか。勘のいい方はすでにお分かりかもしれない。ヒトも、アリマキと同様に、デフォルトは女性であり、母親の胎内で、途中でスイッチが入ってカスタマイズされたのが男なのである。すなわち最初は女性と同じ構造を持っていた体が、途中から急遽男へと変わっていくのである。その痕跡としてあの“すじ”、「縫い跡」が残るのだ……。
しかし、それにしてもなぜ、そんな場当たり的な構造を持った「できそこない」であるはずの男たちが社会を牛耳っているのか。その点についても福岡は興味深い推論を展開する。が、昨今の「草食系男子」ブーム(?)や、先述のフィンランド男性の惨憺たる現状を見ると、「できそこない」たちが花を持たせてもらう時代もそろそろ終わりなのかもしれないという気もしてくる。「できそこない」が本当に衰退し姿を消す日は、遠くないかも?