コナン・ドイルの原作は一つでも、翻訳する人の言葉の選び方、あるいは翻訳本を出す時代、あとは編集者の意向によるのだろう、ホームズとワトソンの会話の言葉遣いが微妙に違っていたりして、各社の文庫を揃えて比較してみるのもなかなか面白い。
sheを、「彼女」と訳す場合と、「あの人」と訳す場合では微妙に気分が変わる。また、古い訳と新しい訳ではずいぶんホームズ物語も気分が変わっている。19世紀の末期のイギリスの紳士同士がどういう物言いをするのか、古い訳はそうした時代を彷彿とさせて悪くなかった。原作も今からすれば少し古めかしい英語、ということになっている。高校生の頃、翻訳を読んでから原作も読んでみたが、古い文体かどうかは私にはわからなかった。というように、ホームズに馴染んできたので、今でも「ホームズ」という言葉がタイトルに含まれていると、手に取らないわけにはいかない私である。
アメリカには「ウエスタン小説」という、いわゆる西部劇映画で描かれる時代を背景にした小説が伝統的にあると聞いた。存在としては、日本人にとっての時代小説、特に江戸時代を描く小説に当たる感じだろうか。
ずっと昔、日本のある出版社が、そうしたウエスタン小説を翻訳して1ジャンルを創ろうとしたことがあった。アメリカで広く読まれているという選りすぐりのウエスタン小説が何編か翻訳された。有名シリーズの第一作などが出て読んでみたが、どうにも風景が浮かばないのと、物語の実感が湧かないので読み続けられなかった。
日本人にとって、東海道を剣豪が旅しているとか、城下町のにぎわいとか、大名が江戸に向かって参勤交代の途中「という雰囲気」ならわかる。史実とは違うだろうけれど、わかることにしている。
それがウエスタン小説で、ガンマンだの開拓者が荒野を馬に乗って西に向かっていて、平原の遙か向こうに今夜泊まろうと思っていた町が見えてくるという風景が文章になっていたとして、頭の中に「上手に描けない」のである。そうして旅をしている男の心情にもなれない。映画であれば映っている風景についていけばいいのだけれど、小説は文章から風景を思い描かないといけない。ガンマンや保安官が出てきても、撃ち合いばかりしているわけはなく日常の生活があったりして、意外に地味だった。また、開拓した土地に住み着いて堅実な暮らしをしようという家族と、西部の荒々しい自然というような物語になるとついて行きにくい。地味な上に、歴史的背景がよくわからず、その上で「西部」の土地勘が全然ない。こっちの頭の中の大平原が狭いのだ。
ということで、私にはウエスタン小説は読んでも楽しめなかった。
だから、『荒野のホームズ』が基本がウエスタン小説で、ホームズの味わいが効いていて、全体としてはミステリ、というのはどうかなぁと、少しためらってから買った。
ところが、読み出すと設定がうまい具合にいっていて面白い上に、明快で楽しいミステリなのだ。出てくる人物の個性もキッチリ描かれていて悪くない。