「ポルフィリン症」という病気がある。体内でできる物質ポルフィリンが皮膚にたまり、それが紫外線と反応すると毒素と化し、重症化すると肝硬変や肝不全になって死亡する。今の医療レベルでは治せない。患者にできるほぼ唯一といっていい方策は紫外線を避けること、つまり日光に当たらないことだ。
日焼け止めクリームを毎日肌にすり込み、昼間の外出には顔をすっぽり覆う黒いフードをかぶり、傘を差す。その姿は特異で、初めて見た人はぎょっとする。好奇を含んだ視線に始終さらされる患者の苦悩は並大抵ではないが、命を守るにはこれしかない。
私事になるが、私の周囲にもポルフィリン症患者がいる。私の故郷、鳥取県境港市出身の21歳と18歳の兄弟だ。2人とも小学生時代に発症した。ただでさえ多感な思春期に、自分の境遇と直面させられたのだ。試練などという言葉では到底表せないように思う。
そんな患者たち自身がせめて経済的な負担を軽減したいと、ポルフィリン症の難病指定(医療費の公費援助が受けられる)を求める全国的な動きがある。2人をめぐっても、このほど地元で「応援する会」が立ち上がった。ひょんなことから私の母親が会の代表を務めることになり、私は母に言いつけられて、設立総会にこんなメッセージを託した。
<世の中には多くの「勇気ある人」がいます。駅のホームから転落した人を助けようと線路に降り立つ人、戦地の傷病人を救おうと薬箱を抱えて銃弾をかいくぐる人……誰もが自らの命を賭してひるむことがありません。しかし、私が考える最も「勇気ある人」とは、自分の命を守るために声を上げる人のことです。これは言うほど簡単なことではありません。わがままだ、甘えている、自己責任だろう……さまざまな中傷・誤解と戦わなければなりません。それでも、声を上げていかれる人を私は尊敬します。なぜなら、自分の命を守ることは、他人の命をも助けることだからです。○○さん、△△さん(=兄弟の名前)の戦いは、私たちの命を助けます>
もとより「ブックジャパン」読者の方々にはまったく関係のない内輪話で、よくもまあ恥ずかしげもなくこんなものを表に出せるものだ、よほど面の皮が厚くなったのだと自分でもあきれている。
しかし、私は日ごろからすべての物事は、個人の価値から積み重ねられなければならないと思っていて、ややこしい話をすれば、いわゆる「個と公」の問題に入っていく。そして、それが今回紹介する本のテーマである「戦争ができる国」と「魂の刷り込み」の関係と通じるのではないかという気がして、あえて私的な一文を改めてここでさらしてみたわけである。
新聞の地方版記事によれば、設立総会で兄弟は「患者は病気が治るのか、周囲に理解してもらえないのではないか、という二つの不安を抱えています」と訴えたそうだ。私は「周囲の理解」とは一体何なのか、と思う。ポルフィリン症に対する正確な知識、難病指定の持つ医学的・社会的意義……さまざまにあるだろう。だが、私には何よりも「生き続けたい」と渇望する心への共感と読み取れる。
心と書けば字面は美しいが、ありていに言えば「欲」であり、小難しく言えば「権利」である。欲をむき出しにしたり、権利を声高に主張することを、なぜかこの社会は嫌う。それでも、ほかでもない自分自身の命のことだから、患者は勇気を奮い立たせ、怖気づく心を叱りつけて見ず知らずの他人に頭を下げるのだ。
自分の命が一番大事――いかにも自明である。ところが、常にそうかといえば、私には疑わしい。最も矛盾がはっきりするのが、戦争だろう。争いは人間の本能だから、決して戦争は地上からなくならないのだと言う人がいる。確かに人と人とのいさかいは消えることはないだろうが、国と国(昨今は「対テロ戦争」など非対称戦争がはびこるが)が争う場合、戦場で相まみえる兵士同士が互いに恨み、憎しみを抱いているとは限らない。
戦争は号令する者がいて、それに従って死ぬ者がいなければ成り立たない。個別の作戦における戦闘では、常に「損害率」が計算される。どんなに優勢な戦闘でも、やはり弾に当たって死ぬ者はいる。だから論理的には、国民全員が「自分の命が一番大事」として行動すれば、その国は(傭兵でも雇わない限り)戦争をすることができない。誰が猫の首に鈴をつけるのか、という議論になった瞬間に全体が思考停止に陥るのと同じである。
しかし、やはりそれは理想論である。実際には、戦争で死ぬ役目を引き受ける人はいなくならず、戦争はなくならない。かつて日本軍に、自らの命と引き換えに敵戦力に打撃を与える「特攻」という作戦があった。私は決して十分に勉強したとは言えないが、元特攻隊将兵の体験記などを読むにつけ、彼ら自身、いかに理不尽な死に方であるかを、あの時代にあってわきまえていたことを知った。それでも、そのために死ねと命じられた「天皇陛下」や「お国」を、親、兄弟、妻、子ども、恋人、ふるさとの人々と読み換えて、自死に向かっていったという。