なぜ、気高くチャーミングな少女エズミは、自分のために小説を書いてほしいと「私」に頼み「どちらかといえば、汚辱のお話が好き」なんて言ったのか。ずっとわからなかったが、新訳では「私、悲惨をめぐる話がいいわ」になっている。汚辱から悲惨へ。私は少しだけエズメに近づけたような気がした。
9つの物語は、何度読み返しても新鮮だ。すべてに登場するのが、ジョークと攻撃が絡みあう洗練された病的な会話、魅力的な女、煙草、乗り物、そして戦争の香り。エズメのほか、翼のような肩胛骨をもつ『バナナフィッシュ日和』のシビルや、空想の恋人と遊ぶ『コネチカットのアンクル・ウィギリー』のラモーナも忘れられない。サリンジャーは少女を少女として描かない。世の中の不穏な歪みを映し、破滅寸前の危うい世界とダイレクトにコンタクトしてしまう存在として描いている。
☆
少女に比べると、少年には現実的な可愛さがあるが、新訳で最も印象が変わったのが、父親のことを「薄汚いユダ公」と言われていじける少年ライオネルを描いた『ディンギーで』(Down at the Dinghy)だと思う。野崎訳では『小舟のほとりで』だった。小舟というと溝口健二の「山椒大夫」を思い出すが、ディンギーならポランスキーの「水の中のナイフ」になり、サリンジャーの父(ポーランド系ユダヤ人)とポランスキーの父(ユダヤ教徒のポーランド人)の共通点が浮上する。ライオネルの母親は「それってね、そんなに大したことじゃないのよ」「もっとひどいことだっていくらでもあるのよ」と言い、ユダ公の意味を知ってるのかと彼に問う。野崎訳では「ユダコってのはね、空に上げるタコの一種だよ」「糸を手に持ってさ」と答えるライオネルだが、柴田訳ではユダ公にルビがついた。原文と併せて引用してみる。
「ユダ公(カイク)って何だか知ってる、ベイビー?」
“Do you know what a kike is, baby?”
続くライオネルのセリフに私はノックアウトされた。
「空に上がるやつだよ」と彼は言った。「糸がついてて」
“It’s one of those things that go up in the air,” he said. “With string you hold.”
まっすぐに空に上がる感じが、限りない彼の未来を思わせて泣ける!1974年の男の子はユダコでよかったかもしれないが、2009年の男の子は、このくらい風通しよく訳してあげないと大人になれないんじゃないだろうか。ラストシーンも素敵だ。
二人は家まで歩いて戻りはしなかった。彼らは全速力で競争した。ライオネルが勝った。
They didn’t walk back to the house; they raced. Lionel won.
新訳は原文に近づいた。より短く軽く早く。新訳を味わったら、ペーパーバックを手に旅に出たい。原文に連れて行ってもらうための柴田訳だと思うから。
手元にある『ナイン・ストーリーズ』の重さをはかってみた。
■332g『ナイン・ストーリーズ』(柴田訳/ヴィレッジブックス/2009)
■307g『モンキービジネスvol.3サリンジャー号』(柴田訳/ヴィレッジブックス/2008)
■160g『ナイン・ストーリーズ』(野崎訳/新潮文庫/1974)
■103g “NINE STORIES”(Little, Brown and Company/1953)
やはり持ち歩くなら103gのペーパーバック。332gのハードカバーは、クリーム色のシンプルな装丁が美しいから、おうちで大切に読みたい。307gのモンキービジネス版を既に購入した人も、保存版にぜひ!