柴田元幸訳の『ナイン・ストーリーズ』は35年ぶりの新訳だそうだが、私には2つ疑問があった。なぜ、いい訳があるのに今さら新訳が出るのか? そしてなぜ、柴田さんはものすごい仕事量をこなすほど人気があるのか?
私は以前、ジュディ・バドニッツの短編“Directions”の2つの日本語訳、『道順』(柴田元幸訳)と『道案内』(岸本佐知子訳)の違いに驚いたことがある。岸本訳は女性らしいきめ細かさがあり、柴田訳はそっけなく短かった。どちらがいいか判断できなかったのだが「同じ位いいと思うなら短いほうがいいんじゃない?」とある人が言う。私はコピーライターという「長い文を短くする仕事」と定義したいような仕事を長年やっているので、この考え方が気に入った。
そのことについて柴田さんに質問するチャンスがあったのだが、ご本人は「ボクのは短いですか。そうですか」と、特にそんなことは考えたことがない、というような返事をくださって拍子抜けするとともに、私はその瞬間、若い男性と対談しても女性から「柴田さん可愛い~!」と言われてしまうその魅力がわかったような気がした。柴田さんは軽いのである。それは、年齢とともに身につく説教くささとは逆のベクトルである。その辺のヒントが『柴田さんと高橋さんの「小説の読み方、書き方、訳し方」』(柴田元幸・高橋源一郎 著/河出書房新社)の柴田さんのセリフにあった。
「小説というものはそもそも思想で読ませるのではなくて文章で読ませるものなんだと実感します」
「一方に原文のテキストがあって、もう一方に翻訳された本があるとしたら、その間にある僕を通過するのは早ければ早いほどいい、もうゼロに限りなく近ければ近いほどいい」
「いつも音楽をかけているのは、考えないようにするにはいいかもしれないですね。頭が働く時って、要するに考えなくても出てくるときだから。原文を見て二度も三度も考えないともう訳が出てこないとか、そういう時はやめた方がいい」
つまり、柴田さんの訳は、短くて軽くて早いのである。思想などに影響されず、原文のリズムが憑依しているのだろう。
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「なぜ、いい訳があるのに今さら新訳が出るのか?」の答えもこの本の中に見つけた。
柴田「村上春樹さんには当たり前じゃないって言われるんだけど、まだよくわからないのは、どうして原文は古びなくて訳文は古びるのか」
高橋「そうなんですよねえ(笑)」
柴田「シェークスピアはあれだけ古いんだけれども、でも訳文のほうが古びますよね」
高橋「最近思ってることなんですけど、だいたい明治四〇年代以降の日本の小説は、言葉は基本的にいまと変わってないんですけれども、古びてどうしようもないものと、しっかり残っているものがありますね。いま原文が古びないと言われたのは、それがいい作品だからなんです。別にどの作品でもそうじゃなくて、ほとんどの作品は古びちゃうんです。その代わり、たとえば『明暗』は、仮に旧字を新字に直してしまったら、いつの時代に書かれたかまったくわからなくなる」
要するに、日本語の表記は古びるということだ。アルファベットの羅列と比べ、漢字やカタカナやひらがなのミックスは、字面から古くさくなるのである。
『ナイン・ストーリーズ』の新訳を35年前の野崎孝訳(新潮文庫)と比べると一目瞭然だ。「ご婦人」が「女の子」に、「奥さん」が「女」に、「職業婦人」が「キャリアガール」になっている。「とんまな鸚鵡」は「お馬鹿さんのオウム」に、「アイとセップンをおくります」は「ラブアンドキス」に、「紙屑籠」は「クズ籠」に。タイトルだって違う。重い読後感を残す『エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに』は『エズメに―愛と悲惨をこめて』になった。