小学6年生と老人の夏を思いもよらぬ精彩に満たし、各人がそれぞれに抱えていた困難を乗り越えてゆくきっかけを作った贈与の運動は、ある日、開始されたときと同じように、唐突に終焉してしまいます。しかし、贈与の運動を断ち切ってしまったかに見えた「死」が、それ自体、はかり知れず貴重な「贈与」にほかならなかったことが、山下の一言で明らかにされる最後の反転がことのほか鮮やかです。
「オレ、もう夜中にトイレにひとりで行けるんだ。こわくないんだ」
「だってオレたち、あの世に知り合いがいるんだ。それってすごい心強くないか!」(208ページ)
この山下の締めの一言をはじめ、『夏の庭』には、それぞれの人物の生き生きとした個性を伝えるリアルな言葉でありながら、みごとに読ませて聞かせる「名せりふ」にもなっているという、実にいいせりふが多く、本作で小説家デビューを飾る以前は、オペラの台本やラジオドラマの脚本を執筆していたという筆者の湯本香樹実氏の経験が、あるいはそこに活かされているのかもしれません。語り手で主人公的な立場にある木山よりも、冴えないデブの山下や、ときには病的なほどにエキセントリックな河辺のほうに、余計にいいせりふが与えられているあたりにも、それぞれに異なる個性を決して「優劣」に還元しようとしない本作の公正さが表れているということができるかもしれません。それはともかく、河辺がいつものごとく唐突にまくし立てる、支離滅裂にして感動的な大演説――
「Aさんの家にはりんごがひとつありました。Bさんの家にはりんごがふたつありました。両方合わせていくつでしょう。はい三つですってわけにはいかないんだ。オレがわからないのは、そういうことだよ。そうだろ? おとうさんをりんごみたいにふたつに割ってしまうこともできないし、うちにはおとうさんがいないから、おじいさんがひとりだから、だからおじいさんがうちのおとうさんになるってわけにもいかない。りんごじゃないんだから。でも、どこかにみんながもっとうまくいく仕組みがあったっていいはずで、オレはそういう仕組みを見つけたいんだ。地球には大気があって、鳥には翼があって、風が吹いて、鳥が空を飛んで、そういうでかい仕組みを人間は見つけてきたんだろ。だから飛行機が飛ぶんだろ。音より速く飛べる飛行機があるのに、どうしてうちにはおとうさんがいないんだよ。どうしておかあさんは日曜日のデパートで、あんなにおびえたような顔をするんだよ。どうしてオレは、いつか後悔させてやりなさい、なんて言われなくちゃならないんだよ」(105-106ページ)
語り手である小学6年生男子の主観的な感覚と体験を通して捉えられる、ときに痛々しいほどに鮮烈な世界の感触が、小説『夏の庭』の大きな魅力でした。相米慎二監督による映画化『夏の庭 The Friends』(1994)では、小説版に横溢していた「主観性」の魅力、こどもたちの生き生きとした声と語りの魅力は、やや後退しています。その一方で、老人たちを演じる、撮影所時代から活躍するヴェテラン俳優たちの身体的な存在感が、画面を圧倒することになります。
「おじいさん」を演じた三國連太郎が、フィリピン戦線での敗走行のあげく、住民を虐殺してしまった戦場体験を小学生たちに物語る場面で、身重の女性をそれと知らずに背後から射殺し、遺体に近づいて触れてみると、腹の中の胎児が「ゴツッ、ゴツッ」と動いたと、憑かれたように語りつつ示す凄惨な身振り。そして、出征したきり家に帰らなかった夫の三國と別れ別れになり、戦争未亡人として戦後を生きてきた淡島千景が、火葬場でついに夫と再会する原作にはないシークエンスがとりわけ圧巻です。相米監督が得意としたワンシーン・ワンショットの複雑な長回しの中、魂が抜けたようにふらふらと火葬場に入ってきた淡島千景が、棺をのぞき込むと、きちんと座って手をつき「お帰りなさいませ」と頭を下げた後、ふと肩から力を抜いて一瞬安らいだ表情をみせる。泣きもせず笑いもせず、たった一言のせりふしかないのにもかかわらず、その一挙一動に、この女性が生きてきた戦後の歴史が凝縮されているような、涙なしには見られないすばらしいシーンです。
池袋・新文芸坐で開催中の淡島千景特集はまだまだ続きます。『夏の庭 The Friends』は最終日の4月28日(火曜日)に上映予定です。ぜひスクリーンでご覧ください。