「……僕はほら地名や職業の名や数字を夥しく作品の中にばらまくでしょう。これはね、曖昧な思想や信ずるに足りない体系に代るものとして、これだけは信ずるに足る具体性だと思ってやってるんですよ。人物を思想や心理で捉えるかわりに感覚で捉えようとする。左翼の思想よりも、腹をへらしている人間のペコペコの感覚の方が信ずるに足るというわけ。」(織田作之助『夫婦善哉』中の一編「世相」より/新潮文庫/1950年/170-171ページ)
作中時は昭和15年、バーで出くわした左翼くずれの文学青年の難癖に応じ、織田作之助本人と思しき「私」が口にするこのせりふは、即座に作者の筆によって「しどろもどろの詭弁」と斬り捨てられはするものの、やはり織田作之助文学のエッセンスの一端を捉えていることは確かです。そのことは、同じ昭和15年に発表されたその代表作「夫婦善哉」の、あまりにも有名な書き出しを見ても明らかでしょう。
「年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋(しょうゆや)、油屋、八百屋、鰯屋(いわしや)、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促だった。路地の入口で牛蒡(ごぼう)、蓮根(れんこん)、芋、三ツ葉、蒟蒻(こんにゃく)、紅生姜(べにしょうが)、鯣(するめ)、鰯など一銭天婦羅(てんぷら)を揚げて商っている種吉は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉(うどんこ)をこねる真似(まね)した。」(8ページ)
リズミカルに畳みかけられる商売の名と食物の名、そして、その奔流に圧倒されるかのように浮かび上がらされる、四苦八苦しつつ心許ない生活を営んでゆく大阪庶民の姿。織田作之助の小説世界を貫く食と商売と金銭と人情の織りなすダイナミズムを、数行のうちに凝縮した、見事な書き出しです。以降、とどまることなく列挙される商売と食物の間を縫うようにして、一銭天婦羅屋の種吉の娘で曽根崎新地の芸者蝶子と、船場の化粧品卸問屋のぼんぼん柳吉の主人公ふたりの、一世一代の腐れ縁の成り行きが綴られてゆきます。
損続きでも「味で売る」心意気を頑なに通す種吉の揚げる「蓮根でも蒟蒻でも頗(すこぶ)る厚味」の天婦羅。「御飯にたっぷり染み込ませただしの味が『なんしょ、酒しょが良う利いとおる』」“まむし”(鰻飯)。実家を勘当になり、蝶子の稼ぎに寄食して無為の日々を送る柳吉が、退屈しのぎに「思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして、山椒の実と一緒に鍋にいれ、亀甲万(きっこうまん)の濃口醤油(こいくちしょうゆ)をふんだんに使って、松炭のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめ」て作る山椒昆布。そういった忘れがたい「下手(げて)もの料理」の描写が全編を彩るなかで、わけても白眉といえるのが、蝶子が、自分が必死のヤトナ稼業で貯めた貯金を使い果たして放蕩した柳吉を折檻した後、千日前楽天地横の自由軒(現在も営業中)に行き、名物メニューの玉子入りカレーを食べる描写です。
「『自由軒(ここ)のラ、ラ、ライスカレーは御飯にあんじょうま、ま、まむしてあるよって、うまい』と嘗(かつ)て柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に沸(わ)いた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々しく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、『阿呆(あほ)んだら』そして唇をとがらして柳吉の顔へもって行った。」(23ページ)
もっとも、「夫婦善哉」が「食」を介して活写するのは、こうした情愛との甘い絡み合いばかりではありません。蝶子と二人暮らしの朝食の味噌汁のために、毎朝襷がけで鰹節をけずる柳吉の甲斐甲斐しさは、自分ひとりの働きだけで暮らしを支える蝶子への思いやりからというわけではなく、ひとえに「好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ食意地の汚さ」ゆえであることが明かされます。柳吉の「食」へのこだわりが、その眼中に他人なきエゴイズムの一端としても描写されるあたり、一筋縄ではいかない「食」の小説としての「夫婦善哉」の本領発揮といえるでしょう。
映画版で森繁久彌の演じた柳吉の「愛すべきぐうたら男」のイメージとはやや異なり、小説版の柳吉は、ときに蝶子やその身内に対してすら発揮される容赦ない冷酷さと、大人しくしていると思えば、いきなり常軌を逸した放蕩を始める自己破壊的な側面をもつ、どこまでも底の知れない人間として描写されます。もう一つの代表作「六白金星」の、やはり徹底して眼中に他人なき生き方を貫くエキセントリックな主人公をはじめ、織田作之助の小説にしばしば登場する、通常の人の世とは相容れない何ものかに憑かれた奇人変人たちの系譜に、小説版の柳吉もまた属しているのです。
柳吉がそのような人物として描かれているからこそ、一度は蝶子を棄てて出奔したはずの柳吉が、ひょっこり蝶子の元に戻ってきた後、二人連れ添って法善寺横丁の夫婦善哉を食べるくだりで、蝶子の口にする「一人より女夫の方が良えいうことでっしゃろ」の一言が、なおさら心に沁みるのかもしれません。そして、そんな掴みどころのない男を、この先もどうにかこうにか尻に敷いていくであろう蝶子の、「めっきり肥えて、座蒲団が尻にかくれるくらい」になったという体躯が、頼もしくも健気にも感じられます。