石目の飄々とした語りによって少し和らげられてはいるが、「橿原」に関するありとあらゆる事象が怪しく謎めいているので、ホラー小説のようなダークな雰囲気にあふれ、五番倉庫の変死事件と「橿原」が担うらしい極秘任務――二つの“謎”が物語を牽引することもあってサスペンスも倍増。しかも変死事件が、毒物の入手方法や容疑者のアリバイ、犯行動機などから犯人を絞り込む本格的な謎解きなのに対し、「橿原」の任務をめぐる“謎”は、新型爆弾を積んで特攻を仕掛けるとか、その秘密兵器がイエスを処刑した時に使われ、奇跡を起こすとされる「ロンギヌスの槍」であるとか、今の天皇はニセモノで、太古に皇統から枝分かれして歴史の闇に沈んだ一族が真の天皇になるため新たな高天原を見つけるとか、伝奇、SF色が強くなっている。「橿原」の二つの“謎”は決して無関係ではなく、石目はトンデモ奇想が提示されるたびに推理の再構築を余儀なくされるので、どんでん返しが連続するのも面白い。
アメリカ軍の爆撃で一般市民の犠牲が増え、前線では戦友たちが散っていき、自身も死と隣り合わせの戦艦の中にいる石目は、たった数名の変死の“謎”を追うことに矛盾を感じながらも調査を続ける。だが戦艦の乗組員である石目は、当然ながら探偵だけに専念することはできない。日々の業務と訓練に忙殺され、親しい人間の変死さえ受け流すことのある石目の存在は、戦争の真の恐怖が、大量の死者を出すこと以上に、人間の死に鈍感になることにあるのではないか、と問い掛けているように思えてならない。さらに著者は、人間を狂気に陥れることのある戦争が、同時に全国民を熱狂させる祝祭でもあることも指摘しており、歴史修正主義的な“肯定論”や戦後民主主義的な“反戦論”だけでは、大東亜戦争の本質も、戦争そのものの本質も掴み得ないことを示したところも興味深い。
奥泉作品は、過去と現在をカットバックさせながら物語を進めたり、死んだはずの登場人物が次の章では何ごともなかったかのように活躍したりする大仕掛けが炸裂することも珍しくない。本書では、読者の頭をくらくらさせる意表をつく構成は抑えられているが、それでも日本海軍が世界に誇る巨大戦艦「大和」「武蔵」を、それぞれ「矢魔斗」「無左志」と記述することで、本書の舞台が架空(パラレルワールド?)の日本であることが暗示され、五番倉庫の中にあるモノの影響によって人間が鼠になったり、その鼠が大戦末期と現代を往還したりする。時空を超えた鼠は、敗戦を乗り越えて繁栄した戦後日本は、アメリカの価値観を受け入れた空虚な国家なのか、それとも飢えとも死とも無縁な幸福な状態なのか、あるいは戦後の繁栄は大東亜戦争の尊い犠牲者の上に築かれたのか、それとも戦死者のことなど忘却して享楽にふけっているのかなど、様々な問題を投げ掛けてくる。
過去は現在と未来の方向を示す羅針盤といわれるが、日本は大東亜戦争を総括することなく、現代に至っている。平和憲法のもと、半世紀以上も戦争と無縁に過ごしてきた日本だが、それは戦争が見えていなかっただけで、戦後の繁栄が朝鮮戦争を始めとする他国の戦争の上に成り立っていたことは否定できず、また最近は対テロ戦争という名の“正義”の戦争に巻き込まれている。このような時代だからこそ、大東亜戦争を通して、戦争とは、国家とは、歴史とは、日本人とは何かに正面から挑んだ本書が書かれた意義は大きい――といっても決して肩ひじを張る必要などなく、探偵小説、伝奇小説、SF、ファンタジーなど、エンターテインメント小説のあらゆる要素が詰め込まれたごった煮のような物語を読むうちに、作品の意図は自ずと理解できるだろう。重いテーマを、決して重く書かない離れ業こそ、本書の真骨頂なのである。