『モーダルな事象』(文春文庫)以来、約四年ぶりとなる奥泉光の新刊『神器 軍艦「橿原(かしはら)」殺人事件』は、大東亜戦争末期に特殊な任務に就くことを命じられた軽巡洋艦「橿原」で起こる不可解な事件を描いている。ざっくり内容をまとめると、メルヴィル『白鯨』(新潮文庫ほか)を思わせる舞台で、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』(河出文庫)を彷彿とさせる衒学趣味あふれる探偵小説が展開するといえば、間違いないだろう。
これまでも奥泉光は、レイテ島で戦友に聞かされた「石には宇宙が刻印されている」との言葉によって、石に魅入られていく男を描いた芥川賞受賞作『石の来歴』(文春文庫)や、真珠湾攻撃を成功させて空母「蒼龍」に着艦した飛行士が服毒死した事件を発端に、時空を超える壮大な物語が展開する『グランド・ミステリー』(角川文庫)など、大東亜戦争をモチーフにした作品を発表しており、本書もこの系譜に属する作品となっている。
『神器』は、中学時代に小栗虫太郎に傾倒し、趣味で探偵小説の同人誌を作るほどのマニアだった石目が、軽巡洋艦「橿原」に配属されるところから始まる。物語の語り手であり、後に持ち前の探偵(小説)趣味が高じて奇妙な事件に巻き込まれる(といよりも首を突っ込む)石目は、『白鯨』の語り手イシュメルがモデルと思われる。『白鯨』には聖書の見立ても少なくないが(ちなみにイシュメルも、旧約聖書に登場するアブラハムの庶子イシュマエルに由来する)、それは本書でも健在。聖書よりも記紀神話に関するものが多くなっているが、象徴的な表現は随所に見受けられる。例えば、戦艦「橿原」の名は、神武天皇が中つ国を平定して畝傍の橿原に宮をおいて即位の礼をあげ、(記紀によると)初代天皇になった故事から採られている。つまり「橿原」は日本の象徴であり、そこにバリバリの皇国主義者から石目のようなノンポリの人間までを詰め込んだのは、小さな“日本”を再現するためだったのではないだろうか。このように、作中には神話から古今東西の純文学、探偵小説までが自在に取り込まれているので、それを探しながら読む(分かりやすいところでは三島由紀夫『英霊の声』[河出文庫]や半村良『産霊山秘録』[集英社文庫]。三島については有名な自決も“引用”されている)のも一興だろう。
それはさておき、石目は「橿原」に乗り込む早々、探偵小説マニアらしく、艦内に漂う「禍々しい死の影」を感じ取る。事実、石目は自分の居住区に着くやいなや、謎の男から、天皇はニセモノであるとか、南方で行方不明になった天皇の双子の弟を探すのが「橿原」の任務であるとかいった真実とも、妄想ともつかない言葉を浴びせられる。さらに石目は、自分の持ち場となる測程儀室の近くにある五番倉庫で三人の人間が不可解な死を遂げており、倉庫の近くには幽霊が出るとの噂も聞いてしまう。やがて艦内では服毒死した根木少尉の死体が発見され、測程儀室の担当者である福金上水が行方不明になる新たな事件も発生するのである。
と書いてしまうと五番倉庫の事件が物語の中心に思えるかもしれないが、本書がクセモノなのは、もう一つ別の“謎”を用意したところにある。「橿原」には最新の水中探信儀(ソナー)や電探(レーダー)が装備され、対潜水艦用の爆雷投下機、対防空戦闘用の連装高角砲や機銃が装備されているのだが、物資の乏しい時代に「橿原」のような弱小艦に最新の艤装をする目的が分からない。さらに「橿原」には海軍と仲の悪い陸軍士官が乗り込んでおり、その権限は艦長よりも強いようなのだが、彼らの任務もはっきりとしない。というよりも、「橿原」の任務そのものが乗員にさえ伏せられているようなのだ。