ベッソンは街角に立って眺める。そこではつねになにかが起きているのだが、それはウェルメイドな物語を語るためというより、ある種の象徴をたぐり寄せるために(そう「死」を引き寄せるために)言葉を運動させているかにみえる。それはまさに詩の方法そのものであり、話を追うだけでは、ベッソンがどこへ向かおうとしているのか、なにを企んでいるのか、正確に掴むことは難しいだろう。しかし、街を彷徨い、嵐の海岸で佇むベッソンの内部に広がった闇が濃くなっていくことを読者はにわかに感じ取ることができる。それはひとえに、言葉の力によるものだけれど、そのメタファーの張り巡らせ方は、企みを超えたある種の凄みさえ感じさせる。
本書におけるベッソンの物語は自らの意志で太陽の光を見つめ、網膜を灼いて盲目になる姿で終焉する(第12章)。その終わりは『オイディプス王』(ソフォクレス)を連想させずにはおかないだろう。この現実に対する態度は、もうなにも見たくない知りたくない、という現実の拒絶である。
そして、エピローグにおいて語られるのは、濃密な死の臭いであり、黙示録にも似た予言である。
「三億の死者 それがきみの未来だ」
「むろん、きみは戦争に反対している。だが、それだけでは不充分だ。きみはそれを主張すべきだ。無駄だ、そんなことは僕に関係したことではない、ときみは考えている……/いや、それは無駄ではない、それはきみに関係したことだ。なぜならばきみには生きる権利があるからだ」
重厚な詩編の中にこうしたアンガージェを呼びかける言葉が埋め込まれている。日常を覆い尽くす死の影、それを見つめる男ベッソン、現実の拒絶としての盲目の選択、反戦への呼びかけ…。『大洪水』は物語の構造が希薄であるかのように見せかけ、そこには大きな物語が隠されていたことを読者はあらためて読み取ることになるに違いない。こうした小説形式の選択も、フランスで1940~50年代に一世を風靡したヌーヴォーロマンが探究しようとした「小説とはなにか」「文学とはなにか」という問いに対する、ル・クレジオらしい回答であると言えるのかもしれない。
ル・クレジオが『調書』で颯爽とフランス文壇に躍り出たとき、彼の小説はヌーベルヴァーグの作品と関連づけて論じられることが少なくなかった。それは、ヌーベルヴァーグが既成の映画への批評/解体を目指したように、ル・クレジオもまたヌーヴォーロマンとはまた一線を画したやり方で既存の小説の作法を壊してみせたのである。中でもあいまいな物語性、断片性、鮮烈な色彩感覚などの類似点から、ジャン=リュック・ゴダールとの比較で論じられることが特に多く、この小説が書かれていた1965年当時、ゴダールも「気狂いピエロ」を撮影していたころにあたり、映画/小説を超えたシンクロニシティを感じさせずにはおかない。
1940年、ニースで生まれたル・クレジオは、医師である父に従いナイジェリアで幼年期を過ごしている。10歳でニースに戻り、中等教育を受けた後、ブリストル大学、ニース大学で学び、ニースを拠点に創作活動を行っている。その点も、パリを拠点にしたヌーヴォーロマンと距離を置くことができた理由だろう。彼の家系は、フランス革命期に、ブルターニュからインド洋に浮かぶ島、モーリシャスに移った移民で、のちに彼が向かう人類学的、ポストコロニアル的な関心は、彼の履歴と決して無関係ではないだろう。『大洪水』においても、1962年に終わったばかりのアルジェリア戦争の影を引きずっていることは明白だろうし、アフリカ育ちのル・クレジオによるアルジェリアの支配を続けようとしているフランスに対する抵抗の声が、エピローグ内にこだましているのも無縁ではないだろう。
ル・クレジオは『海を見たことがなかった少年―モンドほか少年たちの物語』(集英社文庫)以降、初期の実験的な作風は影を潜め、あらゆる生命への言祝ぎ、脱西欧の世界観、といった傾向を徐々に強めながら、詩的で、神話的かつ宇宙的な広がりを持った大きな物語の創り手へと変貌を遂げていく。
しかし、ル・クレジオは何もかも変わってしまったわけではない。彼の後期作品の愛読者で、もしまだ『大洪水』を読んだことがないなら、文庫化されたこの機会に、ぜひ読んでみてほしい。後年、ストレートに書くことができた事柄を、初期作品ではいささかの屈折とためらいを込めて書いているのをきっと理解していただけると思う。