J.M.G.ル・クレジオが2008年度ノーベル文学賞を受賞したのを知り、我がことのようにうれしかった。私にはル・クレジオに淫していた時期(十代から二十代へ掛けてのわずか数年だけれど)がある。
あの頃は、貧乏と暇が服を着て歩いているようなものだったから、大学の授業の合間には金の掛からない生協の本屋で立ち読みをし、それに飽きると本の背表紙を眺めては時間を潰した。ちょうどそのころ「河出海外小説選」の刊行がぽつぽつとはじまっていて、そのシリーズの背表紙を眺めるうちに、なぜか、これを片っ端からやっつけてやろうと思い立ってしまったのである。ロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』全巻が書棚に恭しく並んでいた。第一部の「ジュスティーヌ」からはじめ、第四部の「クレア」を読み終えるころには、ダレルの詩的散文のなんともいえない毒気に当てられ、すっかり骨抜きにされていた。これを超えるようなに凄い小説はそうあるものではないだろうと、あまり期待もせずに「河出海外小説選5」にあたる『大洪水』を手にした。ところが、小説の冒頭数行で、うぶな女子中学生みたいに(という表現がすでに言語矛盾を起こしているのかもしれないけれど)、一瞬にして虜になってしまったのだ。
「初めに雲があった。風に追いたてられながらも、山なみによって地平線にすがりつく、重い、雲の群れがあった。あらゆるものは黒ずみ、まだ残っているわずかな光を散らしたり、浪費したりする鎖かたびらか、薄い鋼片みたいな鱗に整然と覆われていた。光源それ自体であるほかの物体は、定かではないが、近づきつつある事件の異常さに圧倒され、やがて戦いを挑まなくてはならぬ敵のようなものとの対比の中におかしげな姿で、弱々しく、煌めきはじめていた。運動は少しずつ調子が狂っていた。その態度や様式が弱まったというのではなく、大地を一インチずつ蝕み、腐敗させ、活動の内部へ滲み込み、かつて多種多様に確立されていた調和を破壊し、物質の核心に滲みとおり、生命の起源そのものまで無力にし、勝利を得つつある、永遠的、継続的な固定化や、全体的な凍結を遅らせるために消耗してしまったためである。紙のように薄く繊細な影は、風景を覆って無数の光暉をつくり、光の力を奇妙に強め、タンク・ローリーが歩道沿いにつぶしていったガラスの破片は、まるで太陽を三つ合わせたぐらいの強烈さで、隣接する無数の空間に百光年の光を反射しているかのようであった。(略)
そこではすべての物体、すべての原子は A と書かれている。またあらゆる事件、あらゆる構造が、なんであれ魔術的な四角形を描いている。」
そして、こんな感じでAが並んでいる。
A A A A
A A A A
A A A A
A A A A
とにかく、くらくら,きた。まるで『イリュミナシオン』のランボオじゃねぇか。いや、『マルドロールの歌』のロートレアモンか。もしかすると、これは小説ではないのだろうか。と表紙をあらため直すと、黄色い腰巻きには「生の中に遍在する死を逃れて錯乱と狂気のうちに太陽で眼を焼くに至る13日間の物語」とあった。それにこのシリーズは、海外小説選だからして、小説なのだろう…。
この頃はこんな感じだった。小説という形式についてなにも知らないに等しかったし、どれほど自由であるかも、まるで認識していなかった。谷崎潤一郎の、小説はどんなふうに書いてもOKである的な言説が書いてある『文章読本』を読んだのはもっと後のことだったから、その意味でも、本書によって小説について教えられ、小説の形式について目を開いてもらったような気がする。とまれ、私はル・クレジオにしがみつくことにした。
『大洪水』は引用した冒頭のプロローグではじまり、フランソワ・ベッソンを主人公とした13章の物語を間にはさみ、詩的なエピローグで終わる構成をとっている。13章の物語といっても、それは大きな物語を紡ぐために、小さな物語を周到に配し、それを関係づけていくような古典的な物語の構造を整えてはいない。物語は、ベッソンの12日間の彷徨を時間の経過に従い、忠実に追っていく。ベッソンの眼差しによって都市の事物は、仔細に観察されるのだが、それはアラン・ロブ=グリエが数学的な緻密さで事物を描写するとき、眼差しは自ずと解体/生成を繰り返すのとは異なり、その独特な詩的言語によって事物は変容を余儀なくされ、ベッソンの内部を露にしてゆく。