いまこうして書き写してみて、ほんとうに血の通った翻訳だと感じる。『アメリカの黒人演説集』は、訳者の荒このみさんの本でもあると思う。
『アメリカの黒人演説集』には全部で21の、アメリカの黒人による演説が収録されている。19世紀の前半から始まり、ラストはバラク・オバマの、2005年にノックス・カレッジという大学の卒業生に向けた演説まで(この演説もあんまり面白くない)。21の演説のうち、1/3にあたる7つが女性による演説で、どういうわけか概ねこれら女性によるスピーチのほうが活きが良い。肝が据わっているのである。
思うに、大統領就任演説の際のオバマは、もう少し、黒人について、さらには世界史と現在の世界地図の中でのマイノリティに言及する時間を割いても良かったと思う。
そして、あくまで個人的な見解で、いくらでも反論の余地があると思うけれど、全部オバマが1人で書いたほうがきっと良かった。27歳の作家志望の好青年を果敢に起用し、スターバックスで仕上げられた初稿に目を通すオバマという、新しいスタイルの、従来の政治家と違って風通しがいいという印象の、そのオバマの、彼自身の言葉は、たぶんこの共同作業で半分以上、消えたのだ。
さいきん、書店にいっぱいオバマのスピーチに関するムックが出ているでしょう? いったい何種類出ているのかな。たいそうな数だ。たいていCDが付いていて、あれは何を学ぶのかしら。効果的な、説得的な英語の話し方、とか。パフォーマンスの仕方とか。もし本当にそこから何か学ぶものがあるならそれでいいのだけれども、しかし……。
根性が曲がっているぼくのような人間には、なんかあれには既視感が……。そうだ、「ディベート」だ。実際の主張とは無関係に、あるテーマをめぐって2人の人間が正反対の意見を述べ、そのどちらに説得力があるかを競うという、アレである。オバマのCD付ムックを取り巻く環境が、ディベートに求められている環境に酷似しているように見えて仕方がないのである。偏見を承知で書いてしまうが(!)、間違いなくそこには言葉が、まさしくその人自身のものとしての言葉が欠落しているはずだ。
まさしくその人自身のものとしての言葉が鳴り響いているかどうか。それは、個人としての強烈な個性とか、オリジナリティとか、そういうこととは関係がない。「個性的な人」なんて掃いて捨てるほどいるし、およそ「個性」くらい凡庸なものも世の中にない。問題は、他に類を見ない言葉をどれだけたっぷり所有しているかではなく、他人の言葉の中をどのように通過してきたかである。言葉というものは言うまでもなくすべてが他人の言葉で、そうでなければ人と人との関係が成立しない。貨幣と同じだ。巨額の資産があっても、使われない金は金ではなく、金とはすべて他人の金である。いかに使うか(使わないか)ということによってのみ、そこに金と自分との、固有の関係が生まれる。
『アメリカの黒人演説集』から聴こえてくるいくつかの言葉は、他人の言葉が、語る人自身の語り口と態度によって、その演説者に固有の力になっている瞬間がいくつもある。あの時代、長く続いた奴隷制の後に、長い抑圧を跳ね返して声を上げた黒人の男たちはきっとこんな話し方をしたのだろう、と思われるようなそういう語り方の中に、権利に意識的になりはじめた指導者としての自意識が混在する。黒人であり、女性であるという二重の差別の中にあった女性たちに固有のしたたかさを見せつつ、そこにソジャーナー・トゥルースならソジャーナー・トゥルースの、ゾラ・ニール・ハーストンならゾラ・ニール・ハーストンに固有のユーモアが流れている。