もしも「感動するための準備」みたいなものがあったとしたら、それはずいぶん奇妙な行為だし、実はかなり後ろめたいものであるはずだ。しかしそうした準備は、むしろメインストリームとして、けっこう長い期間、続いたのではなかろうか。
ざっくりと言えば、バラク・オバマがヒラリー・クリントンを破って民主党の候補に決まった頃から、大統領就任演説の日まで、それは継続していたように見える。オバマが来るかも、アメリカ史上初の黒人大統領が誕生するかも、という期待が徐々に確信へと変わり、事実となり、歴史上の大きなターニングポイントに自分は生きている! という、人々の思いのピークが、たぶん、1月20日の大統領就任演説だったのだろうと思う。
かく言う自分も、「その時」をTV映像で目撃しようと、あらかじめ放映時間をチェックしていた一人である。で、見た。そのセレモニーを。宣誓式を。そして就任演説を。
うーん。なんだろうなあ。自分としてはなんというかこう、もうちょっとグッと来る「予定」であったのだ。27歳のスピーチライターと2ヶ月かけて作ったというその原稿は、スターバックスで初稿が書かれたとかなんとかで、どこで書いたっていいけどさ……。
TVのスイッチを入れるだけでお手軽に「歴史的瞬間」を目撃しようだなんて、そんな自分の卑しさに対する教育的指導とでも言うべきか。あからさまに反発を覚えるとか、憤りを感じるというのであればまだそのほうが良かった、というのもヘンな言い方だけれども、実際、翌日に会った人に「テレビ観た? なかなか良かったよね」なんて言ってしまったような気もして、それが徐々に日が経つにつれて、居心地が悪くなってきて……。
そんな時に手にしたのが『アメリカの黒人演説集』である。刊行のタイミングもさることながら、その視点や編集の仕方など、ほんと、最近の岩波文庫は実にいい仕事をしている。で、少しずつこの本を読み進めながら思ったのが、「うん、やっぱり言葉って、これだよね」と、いうことなのです。
27歳のスピーチライター、ジョン・ファヴロー氏は、「政治に係わるのはオバマが最後。これからは脚本家か小説家をめざしたい」と言ったのだそうだが、こういうのを聞いて、小姑っぽく「文学を舐めんなよ」と、思ったりはしない。なんでも好きなことをやるがいいのである。むしろ、舐めきった態度で文学に入っていって傑作をものしたらたいしたもんだと思う。27歳、未来はまだまだ前方に開けていて、すばらしいじゃないか。
が、しかし。「キミとオバマが書いたスピーチには、キミの言葉も、オバマの言葉も、ほとんどないじゃん」と、いうことは言いたいのである。
アメリカのことを、日本人がわかるわけがない。まあ、そうかもね。しかし、言葉は言葉だ。実際、『アメリカの黒人演説集』の編訳者である荒このみ氏の手になる平明で端正な「オバマ大統領就任演説」を音声ではなくテキストで読んでみた(「現代思想」3月号 特集…オバマは何を変えるか 所収)けれども、やっぱり「グッとこない」こと、おびただしい。ここには決定的に「なにか」が無い。
その「なにか」が、『アメリカの黒人演説集』の中のいくつかのページで鳴っているような気がするのである。
【子供たちよ、この騒ぎのすごさといったら、これだけすごいのだから、そこから何か調和が生まれるのだろうね。南部のニグロと北部の女たちがみんな、権利、権利と騒いでいるから、きっとじきに白人の男たちがうまくまとめてくれるだろうよ。いったい何を騒いでいるんだろう。】
―― ソジャーナー・トゥルース「女じゃあないのかね?」より
【アメリカ市民と黒人という別々の感情は持っていない。私はただ「大きな魂」の断片で、その領域で揺れ動く。私の国で正しかろうが、そうでなかろうが。
ときおり差別を感じるけれど怒ったりはしない。私はただびっくりするだけ。えっ、私と一緒にいる楽しみを捨てるっていうの。それは私の及ばぬところ。】
―― ゾラ・ニール・ハーストン「黒い肌の私ってどんな感じ」より