記憶は、時間という味方を得て武器になるのだ。だから私たちは、どんな時点でも諦める必要はない。手を下せないことや結論が出ないことは、そのまま寝かせておくこと。15年後には、許せないものが許せたり、なんとなく思い通りになっていたり、重要なことに気付いたりすることが必ずあるはずだから。
象徴的な事件が起こる。タケヤスの幼なじみであり、かつて意図的にこじつけられた憶測により町から追い出された母子家庭の長男が、勤務先の手がけるショッピングモール建設計画を実現すべく、地元に派遣されてくるのだ。まるで、かつて彼を追い出した商店街への復讐のように! 彼が戻ってくることで、タケヤスの記憶はより鮮明に巻き戻され、商店街の人々は気まずい思いをするが、ショッピングモールの建設そのものは、悪いことばかりじゃない。
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『八番筋カウンシル』は、<タケヤスと、保守的な商店街そしてひ弱な父親をめぐる物語>ということもできる。商店街の人々や、行方の知れなかったタケヤスの父親が、どうなっていくのかを見守りたい。いくつかの事件は解決するように見えるが、タケヤスはまだ若く、問題は山積みだ。これは、あるひとつの事件を切り取って解き明かすミステリーではなく、世界は終わらないミステリーであるということを描いた小説なのだと思う。
終わらないことは救いであり、希望でもある。タケヤスは、地元の年配者の話を積極的に聞き、亡くなった人のことも忘れない。別れる人も、いなくなる人も、その時点で終わりではなく、誰かの記憶に残り、やがて何かにつながる。つまり、人生は美しい受け身だ。人は脈絡もなく勝手なことをして生きていけるわけじゃない。周囲の人々や環境が発するメッセージを謙虚に受信し、対峙し続けることで、初めて自分の望む人生が開けるのだろう。
保守的な商店街の中心人物は男たちだが、その中で際立つのは、むしろ女のキャラクターであることにも着目したい。美しい女と美しくない女。男に媚びる女と媚びることができない女。商店街でうまくやっていく女と一刻も早く出ていきたい女。タケヤスは、彼女たちにどんな視線を注ぎ、実は誰のことが好きなのか?そこを読み取るのが楽しい。
津村さんは一貫して、女が多様な人生を選びとれる可能性を示す。女は、美しく生まれれば幸せかもしれないが、美しくなくても幸せになれる。イノセントであることは魅力的だが、傷を負うことでさらに深い魅力が増すかもしれない。男に寄り添って生きるのはひとつの形だが、一人でも女どうしでも楽しく生きられる。これらの事実は、女だけでなく、男の生き方をも自由にするだろう。
最後の桜の描写は美しい。タケヤスは、桜を見ながら別のものを見ているのだ。こんなふうに、ちょっとした季節や空気の動きから、何の脈絡もない真実をかぎとることができたらいいなと思う。
今年の桜の開花が、楽しみになってきた―