地元の中学の同級生と、高校や大学の同級生と、会社の同僚。
この小説では、その違いがこんなふうに表現される。
「近所に住んでいる、というだけで集められた人間たちというのは、学力を基準に招集された高校や大学での人間関係よりも、それぞれが送る人生は多様だったりする。大学院に行く人間も、少年院に行く人間も、金持ちになる人間も、借金で失踪する人間もいる」
「会社にいた時だってそれはいろいろあった。いろいろな人間がいた。いい人もいれば、どうしようもない屑もいたし、その両面を持ち合わせているやつもいた。しかし、全員が全員、会社に雇われて家の外で歯を食いしばって働いているという前提があり、死ぬほど腹が立った時も、そのことを思い出して堪えたものだった」
地縁で結びついたゲマインシャフト(=地元)は、利害関係で結びついたゲゼルシャフト(=高校、大学、会社)よりも多様でわかりにくいということだ。高校の同級生や会社での人間関係をベースにした『ポトスライムの舟』の後に出たこの本で、津村記久子さんは、より難易度の高い地元商店街の人間関係に踏み込んだのである。
『八番筋カウンシル』の主人公は、東京で就職したものの体を壊して会社を辞め、地元に帰ってくる30目前の男、タケヤス。彼は小説の新人賞を受賞したばかりでもあるが、そんなタケヤスと対照的なのが、地元の商店街のリーダー格であるビルオーナーの高須だ。
「想像したこともない生き方だ、とタケヤスは思う。そういう人間が目の前にいる」
婿養子に入ることで財産を手にし、地元の名士のようにふるまう高須は、普通ならば深く考えずに「ああ、よくいるタイプだな」と類型化したくなるような男だと思う。だが、母子家庭の長男であり、印刷会社に勤めていたタケヤスにとって、一切外で働かずに不動産を受け継ぎ、男尊女卑のゲマインシャフトを牛耳る高須は、脅威と胡散臭さのシンボル。簡単に片付けるわけにはいかないのだ。
☆
高須の存在だけではない。タケヤスは、幼なじみをはじめとする地元の人々の生き方とそのつながりを詳細に見つめる。どこにでもあるような街の、どこにでもあるような商店街の、どこにでもいるような一人ひとりを長いスパンで観察することで、どこにもない新しい物語が生まれるのだから、人生は面白い。この小説は、中学時代と現在の描写が交互に繰り返される構造になっているが、中学時代の記憶が、15年後、新しい意味を帯びて立ち上がってくるのである。
「タケヤスはその過程を、可能な限り見聞きして記憶に刻み付けるよう努めた。(中略)それを覚えていることが、いつか誰かに襲い掛かるのだと、そう自分に言い聞かせるしかなかった」