詳しく語られない過去が、全編に響いている。書かないことでたちのぼる空気。津村さんは、あらゆる空気をとらえる優れた写真家だ。近景も遠景も、フレームの外側さえも。そして、彼女の小説は私たちに教えてくれる。近くに見えるものが最も重要とは限らないのだと。
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『ポトスライムの舟』に収録されているもうひとつの小説『十二月の窓辺』を読むと、さらに理解は深まる。『ポトスライムの舟』における遠景が、こちらでは近景として描かれているのだ。主人公の名前はツガワだが、ナガセの過去、つまり「新卒で入った会社を、上司からの凄まじいモラルハラスメントが原因で退社し、その後の一年間を働くことに対する恐怖で棒に振った経験」にまつわる作品といっていい。
V係長という女性上司による精神的暴力が激しく描写されるが、ここで重要なのは、理不尽な怒りのぶつけられ方が、どんなふうに人間の思考や尊厳を奪っていくのかということだ。ツガワの職場からは、トガノタワーという別の世界で働く人々が見える。そのうちの一人を観察する彼女は、キェシロフスキの『愛に関する短いフィルム』で向かいのマンションの女を望遠鏡で観察する郵便局員の少年みたいだ。映画では、女の彼氏が少年のマンションの前に立ち「どこのどいつだ、出て来い!」と叫んだとき、少年はへろへろと階下に降り、ぼこぼこに殴られ、そこから世界が変わる。のぞき見だけで終わらずに、へろへろと外に出てゆくことが大切なのだが、この小説も同じだ。ツガワはその結果「Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではない」ことを知る。「自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった」。そして、水の上を歩くようなおぼつかなさで職場を出る最終日。「もう投げやりになる理由は何一つなく、自分を大事にしなければ」とツガワは思う。近景であった職場が、その瞬間、遠景にすり替わる。同じような世界はどこにでもあるのだという結論に至らないところが素晴らしい。
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人は何に力を得て、どんなときにやる気を失うのか。身体に宿る力の微妙さに津村さんは迫る。力が満ちたり、抜けたり、足元が崩れたり、コントロール不能に陥ったりする中で、何を見て何を見ていなかったかが、あとで必ず問題になってくる。人はいろんなことを考えることができるが、一度に思うことはただひとつ。だから私たちは、見逃している多くのものを、写真を撮るように漠然と記憶しておき、あとでふと気が付かなければならないのだ。そうすれば、世界は均一でないと知ることができる。世界に一歩、近づけるということだ。
津村さんの小説は、ストローブ=ユイレの映画のように、背景やフレームの外が写っている。すべてが伏線であり、終わりがない。つまり、世界をひとつにまとめる小説ではなく、世界の多様性に向かって開かれた小説なのだと思う。津村さんは、会社員を続けながら小説を書いているそうだが、どんな場所からでも、人間のささやかな身体感覚が宇宙の法則につながっているという真実を、アグレッシブに発信し続けてくれる作家だと思う。