『夜はやさし』はスコット・フィッツジェラルドの四作目の長編小説だ。『グレート・ギャツビー』の成功から九年経って発表された作品だが、その間にアメリカのムードも、フィッツジェラルド自身の人生も大きく移り変わってしまった。『夜はやさし』が出版されたのは1934年、アメリカは1929年に襲った大不況の傷痕がまだ癒えていない頃である。フィッツジェラルドが主役だったお祭り騒ぎのジャズ・エイジは既に終わり、妻のゼルダは精神を病んで入退院を繰り返すようになっている。
二十年代のフィッツジェラルドの作品を支配しているのが陶酔の中でふと感じる「終わりの予感」のせつなさだとしたら、『夜はやさし』はその終わりに行き着いてしまった後を描く小説だ。フィッツジェラルドの文章は登場人物たち、特に主人公の精神科医ディック・ダイヴァーが若さや希望を失い、ゆるゆると退廃的に滅んでいく様子を、あきらめに似た優しさで包み込んでいる。ぷつりと糸が切れた後の、解放感とはまた違う気怠さと、季節外れのリゾートで一人、誰もいない海をたゆたっているような雰囲気。この虚無的な甘さとつかみどころのなさは、フィッツジェラルドの作品の中でも『夜はやさし』独自のものだ。
この作品を失敗とする意見もある。その緊張感のなさからか、あるいはところどころに見られる綻びからか。何より「未完成」のイメージが強いのが大きな要因だろう。
有名な話だが、現在世に出ている『夜はやさし』にはふたつのバージョンがある。34年に発表されたオリジナル版と、後にフィッツジェラルドが考えた変更案を基に、批評家マルカム・カウリーの協力によって完成させた51年発表の改訂版である。細かな点を除けば、オリジナルと改訂版の違いは構成にある。
最初にフィッツジェラルドが発表したオリジナルは、1925年、新人映画女優のローズマリーが南仏のリヴィエラを訪れ、精神科医のディック・ダイヴァーとその妻ニコルに出逢うところから始まる。若々しく、型破りな魅力に溢れたダイヴァー夫妻と彼らを取り巻くアメリカ人のサークルに無垢なローズマリーは魅せられる。そしてディックに恋心を抱くようになる。同時にローズマリーは、美しく、貴族的なニコルにも接近する。しかし、この夫婦には何か秘密があるらしい。夫婦の友人であり、特にニコルのことを愛している若いトミー・バルバンはこの夫婦の名誉を守るために決闘騒ぎさえ起こす。やがて、ローズマリーが泊まる部屋で黒人の死体が見つかるという事件が起こるにいたって、夫婦の秘密が明らかになる。ニコルは精神を病んでいた。
第二部は時間を遡り、チューリッヒにやって来た若き医者のディック・ダイヴァーと、総合失調症の美しい少女ニコルとの出逢いが描かれる。ニコルは父親と近親相姦の関係に陥り、精神を病んだのだ。二人は医師と患者の関係を越えてしまい、恋に落ちる。ニコルが財産家の娘であったため、ディックはお金目当てで結婚しようとしていると彼女の家族から責められるが、ニコルとの結婚は贅沢な自由を彼に許す代わりに、野心的な研究者であったディックの、医師としてのキャリアを奪うことになる。第三部になると時間は再び先に進み、ニコルを離婚で失い、ただゆっくりと崩壊していくディックの人生が綴られている。
改訂版は第二部が冒頭に来て、時間軸通りに物語が進んでいく。そのため、目もくらむような美しき夫妻の秘密が明らかになっていくオリジナルと違い、徐々に破滅していくディック・ダイヴァーの人生を、読者はひたすら追うこととなる。
現在日本で出ているものでいうと、集英社から新訳で出た『夜はやさし』はオリジナル版の構成であり、復刊した角川文庫の方は改訂版の翻訳に当たる。ペンギン・ブックスのペーパーバックだと、Essential Penguinで出ているのが改訂版で、Penguin Modern Classicsのシリーズで出ているのがオリジナル版だ。二つの版のどちらを読むかで『夜はやさし』の印象は大きく違うが、アンニュイでありながら、若さが持つ痛々しさも感じられるオリジナル版の構成の方が私は好きだ。